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hinohi_no
2025-07-27 10:37:33
12947文字
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その他
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運命のひと
ゲ謎のshipなし怪奇もの。寄稿作品
1
2
3
照り返しがきつい夏日の中で、多くの人間が歩いている。パタパタと汗を垂らし、がむしゃらに働き、スーツを汗まみれにすることが美徳だと信じているものたち。
しかし、棍を詰めすぎて倒れてしまっては、それこそ男が廃ると言うやつだ。体調管理もできないやつは仕事もできない。
次の訪問までまだ時間はある、と水木は汗で気持ち悪く感じる腕時計を見て、喫茶店に入った。煙草と珈琲の香りに包まれると妙に落ち着く。席に座る前に適当に珈琲を頼み、置いてあった新聞を手に取る。
机で煙草の先を叩き、備え付けのマッチで火を点けた。今日みたいな真夏日にも、風が冷たい冬にも、サラリーマンを支えてくれるのは煙草だけだ。
少し遅れて、店員が水を持ってくる。新聞の文字を追っていたから、店員が去るまで気づかなかった。
「
……
ン?」
水木の向かい、誰もいない席にも、コップとおしぼりが置かれていた。
何かの間違いだろうと思いながら熱々のおしぼりで顔を拭く。数分とたたずに珈琲が運ばれてきたので、何の気無しにウェイトレスに尋ねた。
「向かいの水、間違えて持ってきたんだろう? 下げてくれ」
彼女は「え?」と不思議そうな顔をして、それから水を下げていった。疲れているのだろうか。
それはそうとして、働かねばなるまい。働かざるもの、食うべからず! 最近引き取ることとなった子供が家で待っていることを考えれば、水木はますます奮起せざるを得なかった。
水木はこれまで、所帯を持つという感覚がなかった。しかし、男は結婚せねば出世もできない。いつかどこかで良い女と見合いが必要かとも思っていたが、同時にそれだけは面倒だという気持ちもあった。しかしそれでは、母親が老いた時の面倒は誰が見る? 水木の世話は誰がする? 必然、嫁をもらうことが社会を生きる必須条件であることは気づいていた。
だが、ひょんなことから
――
あの夜の不思議な体験から、水木は一人の子供を授かった。不気味な化け物の夫婦が遺した、化け物の子供だ。普通であれば、人間が育てていいわけがない。殺してしまうべきであった。
だけど、不思議なほど
――
愛おしかったのだ。
小さな小さな赤ん坊を見ていると、胸が狂おしいほど痛くなる。一生懸命に泣く姿を見ていると、泣かなくても良い世界を作りたくなる。この子のために、水木はどこまでも頑張れると思った。この子が生きていく未来を、守りたいと願えた。そんなことを感じるたび、所帯や出世はどうでも良くなってしまう。
愛おしい人が、いつか俺にもできるだろうと、誰かが言った。誰だったかは覚えていない。もしかしたら、夢だったのかも。ただ、それがいるとしたら、きっとこの子だ。
名前を決めないとと思っていたら、小さく鬼太郎と囁く音が聞こえた。周りを慌てて見回してもいなくて、狐につままれたような面持ちで、鬼太郎と名付けた。
鬼の名前をつけるのは随分なことであるが、そんなことはどうでも良かったのだ。全てのしがらみもなく、この子にさえ幸せになって貰えればいい。これまでしがみついてきたどんなことも、この子の前では馬鹿馬鹿しいことだった。
俺だってもともと戦争の傷跡が残る顔面だったのに、さらに髪が白くなったりして不気味がられている。お似合いの親子じゃないか。
どうしてこんなに愛しいのかは分からない。世の中では血縁が一番大切で、血のつながっていない人間のことは家族にすることでしか愛さないのだから。ただ、それでも
――
無性に愛しくて。守ってやりたくて。
「鬼太郎、ただいま」
この一言を、この子に言うために生きている。
残業に一時間ほど前から降り始めた大雨が重なって、革鞄を傘にして慌てて走る。
(予報で雨が降るって言ってたか?)
こんなに遅くなる予定ではなかった。だが、取引先の都合で急な残業になることは珍しくもない。もういい、と今日はタクシーを捕まえることにした。同じようなサラリーマンが列をなしてタクシー乗り場で待っている。タクシーは儲かり時でいいねえ。停留所の屋根を貫通するように横殴りの雨が体を濡らして、やってられねえとネクタイを緩めて待つ。ようやく、己の番が来た。
「濡れてて悪い。××町の方まで
――
……
」
「イヤイヤ、大丈夫ですよ。大変ですねえ、こんな時間まで」
「本音は儲かってて嬉しいんじゃないですか?」
ニンマリしながら煙草に火をつける。雨でしけったマッチを何度か擦って、ようやく紫炎を燻らせた。
バレましたか、と運転手は笑う。今日はあなたみたいなお一人さんだけですよ、と続く言葉にそうだろうなと頷いた。
タクシーは会話するものだ。意外と色々な情報を持っているし、水木はこう言う時は何やかんやと話すことにしている。
「遅くなって嫁さんに怒られませんか?」
「俺は結婚してないんでね。あなたはどうなんです?」
「はは、いや全く。家に長居してると怒られるんですよ」
「亭主留守で元気がいい、ってか。はは、元気な奥さんだ」
大雨がフロントガラスをびしゃびしゃに濡らし、一番早くしたワイパーが拭っては前が見えなくなる。それでも運転手は慣れたもので、僅かな対向車の明かりを見逃さない。
「着きましたよ」
「ああ、悪いがタオルとか
……
布はありますか? シートを濡らしてしまった」
どうぞ、と差し出されたシートを受け取る。自分の尻の下を拭いて
――
と思ったら、その隣。自分が座っていたシートではない席もぐしょぐしょに濡れていた。
「こっちも拭いておきますよ」
仕方ねえ運転手だ。新しい客を乗せる前に拭いておけと思わなくもないが、そう言ってやれば目を丸くしていた。
「え? 窓でも空いてたんか
……
?」
素で呟いて、アレ? すいませんね? と首を傾げる彼も疲れているのだろう。互いに夜半まで働いている。ふっと笑ってタオルを返す。料金も置いて、じゃ、と扉を閉めた。
扉を閉める。
――
不意に、タクシーは左側の後部座席に乗るものだ、と思った。今自分がそうしたからだ。
運転手の彼は、今日は一人客ばかりだと言っていた。その場合、右側に乗せることは基本的にない。後部座席のシートは中央が手すりになっていて、わざわざ左側から乗った乗客が右側に移動することもないはずだ。むしろそうであれば、水木が散々肘をかけていた手すりが濡れていたはずであるが、そこは濡れていなかった。
つまり、誰かは右側に乗った。
まあ、おそらく運転手の記憶違いだろう。二人連れの客がいたのだ。
玄関まで鞄を傘にして小走りに歩く。急に大雨になるから、芯まで冷えてしまった。風呂に入りたいが、今から温めるのも面倒だ
――
そう、雨は急に降った。
水木が乗る一時間前から降った。それなのに、あんなに運転手が不思議がるものだろうか?
何となしに、タクシーを振り返った。料金の計算や記録があるから、タクシーは客を下ろした後しばらくそこに留まっている。その後部座席。水木が拭いた席。
女が座って、こちらを見ていた。
「っ⁈」
前髪が長くて、おまけに雨で視界も悪いから顔は分からない。ただ、車後ろの窓からこちらを向いている。完全に後ろを向いた状態だ。タクシーは留まっていて、動き出す気配もない。肝が冷えて、玄関の鍵を鞄から取り出す。手が冷え切ってるから、うまく鞄を開けられない。視線をあの女から離してしまっていいのだろうかという焦りがあった。鍵を見つけた。タクシーを見る。
誰も乗っていなかった。
タクシーはエンジンをふかし、排気ガスを出しながらまだきっと記録をつけている。休憩しているのかもしれない。
ようやく鍵を見つけて玄関を開けた。雨音を遠ざけるように中に入る。母もすでに寝入っている時分だ、鬼太郎も同様だろう。内側から玄関の鍵を閉めて、廊下を見て
――
そこに、さっきの女が立っていた。
絶句して瞬いた一瞬で、それが消える。恐怖で妄想を見たのか。疲れている。色々な人間が疲れていると思ったが、一番は自分なのかもしれない。は、は、と息をして、深呼吸。ほらみろ、廊下には誰もいない。いるはずがない。
靴を脱いで、風呂に向かう。
先ほど女が立っていた場所に水溜りがあることに気がつかないまま、水木はそこを通り過ぎた。
「なんか
……
」
肩が重い、気がする。
母の用意した朝飯を食べながら、水木は首を回した。昨夜は早々に寝入ったものだが、やはり寝つきが悪かったか眠りが浅かったのだろう。どうにも調子が悪い。まだ水曜日。週の折り返し地点だ。
「体調が悪いなら、仕事は休んだら?」
「いや
……
大丈夫」
そこまでではない。飯をかき込んでいると、鬼太郎が這って己の膝に乗ってきた。どうした? と問えば不思議そうに首を傾げている。そんな様も可愛い。
「いい子にしてろよ? いっぱい稼いでくるからな」
――
カラン、と。
下駄の音。
そして、美しい桜の木。
痩身の誰かが脳裏に過ぎる。
覚えていないはずなのに、知らない光景なのに。
その光景がよぎる度に、水木は鬼太郎への愛しさで、涙が溢れそうになる。
哭倉村に行って一部記憶喪失になってから、ずっとそうだ。
きっと何か忘れている。きっと何かあった。そんなこと、白髪になってしまった己を見れば分かるだろう。滅んだ村に、自分が何をしに行ったのか。覚えていないのだ。他人事のように。
それでも
――
あの、美しい一瞬は。
まるで、よすがみたいに。水木の胸に残り続けている。
「だ、あー」
鬼太郎のねだるような声に不意に現実に帰る。お腹が空いたのかもしれない。ぷにぷにとした、つきたての餅みたいな頬。どうしても頬が緩んでしまう。ああ、もう
――
俺はきっと、世界と天秤にかけてもこの子をとってしまうだろう!
(
……
にしたって、なんか最近調子が出ないな
……
)
朝出勤したら、外回りついでに整骨院に顔を出そう。最近行っていなかったが、腕が良く、時折バキバキになった体を治してもらっていた。
あそこは本当、神の手ですよと言っていた客の勧め通り、評判の整骨院だ。夜は混むが、行く分には良いだろう。
「水木さん、お久しぶりです」
客の名前と顔をよく覚えている
――
水木もそうだが、そのくらいの接客根性がないと客商売は続かない。
「っと
……
」
しかし、顔を出して彼は驚いていた。その理由に思い至り、ああ、と髪を摘んだ。
「これは気にしないでくれ」
この髪を見ると上席はなんだか気まずそうにする。恐怖の眼差しもあるかもしれない。あるいは同僚ならば、おそれと好奇心を持って「何があったんだ? 他言しないから教えろよ、同期のよしみだろ
……
」なんて酒を注ぎながら問うてくる。覚えていないのだから他言するかしないかは正直関係ないのだが、やはり人は下世話で、噂好きなものだ。自分にしたって、さまざまな噂を流されていることは知っている
――
……
。
しかし、彼の驚きは、それらとは違って見えた。
「今日は
……
」
「肩が重くてな」
「でしょうねえ」
「?」
典型的だなあ、と彼は顎に手を当てている。見ただけで肩が悪いとわかるような体勢にでもなっているのだろう。多くの人間を診てきただけはある。
診察用のベッドに腰掛けて、彼が首や肩を触診する。
「水木さん、私はこの仕事をして長いのですが
……
実は、実家が寺でしてね」
「はあ」
「それもあって、結構
――
視えるんですよ」
急に何を言い出すかと思えば。
「オカルトですか?」
「そう言われれば、そうですね。でも、水木さん。
最近、女に恨まれませんでした?」
「女に?」
口に出すと、ピリッとした痛みがこめかみに走った。
思い当たることは、なかった。
だが、昨晩の女が目に焼きついている。
「そのものというわけじゃない
……
それなのにこれ程とは
……
余程酷い目にあったんでしょう」
トントンと肩を合わせた手のひらで叩きながら、彼は独り言のように呟く。が、その冒頭が水木にはやけに気になった。
「そのものというわけじゃない?」
「ええ。人の想い、特に強い呪いや恨みは、残りやすいんですよ。
……
戦争がありましたから、それを背負ってる人は分かりやすい。水木さんのように」
「
――
」
正気を失うような理不尽と、死の痕。忘れたことはない。けれど、こんな髪になってから不思議と水木を苦しめるあの地獄は遠ざかっていた。それは、きっと鬼太郎のおかげなんだろうと思っている。
「でも、そうじゃない。
……
最近
……
随分の恨みと遭遇したんじゃないですか?」
「
……
」この男の言うことを、頭から信じているわけではない。水木はもとより現実主義で、奇跡と同様に幽霊も信じない。だが、なんとなく。
「
……
実は、記憶がないんだ。少し前に仕事である村に行って、そこから村の近くで救助されるまでの間。驚いたことに、その村は昔からずっとそうだったように、廃村だった。だから
……
何があったのかは分からない」
カラン、と。
美しい下駄の音。
美しい桜の色。
覚えている映像がある。覚えている何かがある。
けれどあと一歩、何かが、水木の中でその記憶を掘り起こそうという気にさせない。
「そうでしたか。では
……
その村では、きっと。
思い出したくないこと
が、あったんでしょうね」
そう、だったのだろうか。
そうだろうか。
美しい何かを、忘れてはいないだろうか。
大切なものを、忘れてはいけないものを。
守りたかった、忘れたくなかったすべて。
――
水木様
。
「
……
」
煙草を吸って、煙を吐く。
整骨院で、肩はかなり良くなった。仕事は順調で、残業も数時間で済んだ。
ただ、あの話を何度も反芻している。
俺は何かを忘れている。
鬼太郎を抱き上げた。煙を嫌がりもせず、こちらを見ている。
かつて、殺してしまった方がいいと思った。
「けれど、あなたはそうしなかった」
「
……
ン?」
胸中の声に、明瞭な応えが返ってきたことへの驚きと、けれど部屋には水木と鬼太郎だけであることへの驚き。母親はもう自室で休んでいる。そうなれば、今聞こえた少年の声の持ち主は存在しないはずで。
キョロキョロと見回す。
「水木さん、僕です」
今度は、はっきりと分かった。
声の主は鬼太郎である。
「
……
ぇっ
……
」
奇術師でも、裏にいるのか?
抱き上げている鬼太郎の背中側を見る。当然、誰もいない。
「念の為言っておきますが、夢じゃないですよ」
「そ、そうか
……
」
とりあえず、鬼太郎を下ろした。
「鬼太郎
……
?」
恐る恐る、尋ねてみる。まだ赤ん坊に。側から見ると正気を失っているのだが。
「はい」
しっかりと。疑いようもなく。
その赤ん坊が答えるものだから、気が遠くなりかけた。
「最近悪いものに憑かれているので、このままではまずいと思います」
「わ、悪いもの
……
?」
そういえば鬼太郎は化け物の子だったので、人間の成長に当てはめるものではなかった。そりゃそうか。なんかすっかり忘れていた。
「女です、水木さん」
ひた、と音がした。
濡れた足が歩く音。廊下からだ。今日は雨ではないにも関わらず。ひた、ひた、ひた、ひた、ひた、ひた、ひた。
咄嗟に鬼太郎を抱えた。廊下側に背を向けないように、押し入れまで下がる。何かがいる。誰かが、そこを歩いている。しまっている襖の向こう
――
それは、徘徊している。
ガタガタッ!
襖を向こうから誰かが激しく引く。だが異常に立て付けが悪いかのように開かない。鬼太郎を見る。小さな赤ん坊の姿でふるふると首を振った。声を出さずに。
ガタガタッ、ガタガタッ!
流石の水木でも分かる。開けては、ならない。
「
どうして
……
」
か細い女の声がした。あまりにも悲しく、切ないくらいの恨みがこもった声。胸が痛む。何故か、初めて聞いたはずの声なのに
――
たまらなく、苦しかった。
返事をしそうになる水木を、腕の中の鬼太郎が制す。
「声を出しちゃ、ダメです。応えてはいけない」
「っ
……
」
「どうして、ですか
……
何故、わたくしのことを」
ずきんずきんと、頭が痛む。感じたことがないくらいに息が苦しい。言葉一つ一つが、すべて水木の正気を奪うようで。
襖がガタガタと動き続ける。女はすぐそこで、扉一枚を隔てた先で
――
哭いている。恨みと、呪いと、悲しみの果てで。
そんなことはさせてはいけない。それだけは駄目だと、そう思う。俺は、鬼太郎の父だから。
「ねえ、どうして。どうして、わたくしは
……
苦しいばかりの、人生で
……
」
襖を引く動作が、猫のように引っ掻く音になる。ガリガリガリガリガリガリガリガリと爪が立てられる音に、眩暈がする。気持ちが悪い。汗が滝のように流れていって、不安定な視界の中で、水木は鬼太郎を抱いたまま、歩き出す。
「水木さん⁈」
鬼太郎が止める声が、遠くの方で聞こえる。襖を引っ掻く異様なまでの爪音は、女の声も、鬼太郎の声すらかき消すほどに鳴り続ける。
ガリガリガリガリガリガリガリガリ/襖の一部が、破れそうなほど薄くなっている/ガリガリガリガリガリガリガリガリ/きっと生身の人間なら、とうに爪が剥がれ、指の肉までこそげているだろう/ガリガリガリガリガリガリガリガリ、
――
彼女を突き動かす、怨みは。
ついに、襖を破き始める。
白い指は血で真っ赤に染まり、爪も残らず剥げているだろう。襖の向こう。指が、こちらに伸ばされる。黒い髪。大きな瞳。色のない唇。手を伸ばせば届く位置まで、いつの間にか歩み寄っていた。気が遠くなる。目の奥が痛む。溢れた汗が、畳に落ちて。
彼女が、口を開く。
――
どうして、忘れてしまったのですか?
水木様、と己を慕う、少女の声。
覚悟にさえ満ちたような瞳が、夕闇の中で己を貫く。
ただの錯覚だ。ただの憧れだ。彼女はまだ子供で、〝東京〟から来た異性に憧れているだけ。田舎に飽き飽きして、都会に出てみたいだけ。事実、自由なんてない。女に、そんなものはないのだ。いつだって男の付属物で、世話をするために存在し、性欲を向けられて受け入れる。子供を産むために、女は妻であらねばならない。家を絶やさぬために。血を途絶えさえないために。
彼女は美しく。きっと、良き母になっただろう。美しい妻にもなりえた。そして子供のために献身する。いつだって、夫と、夫の家族と、子供を第一に考えて生きていけばいい。
――
女はそうであれと、誰もが思っている。
その地獄を、彼女は誰よりも、知っていた。
そのことを、思い出したくなかった。
地獄を生き、絶望のままに死に、ほんの少しの幸いも掬い取れなかった少女のことを。
水木自身が、死に追いやったも同然の彼女のことを。
「
………………
ぁ
……
」
襖を破いて、指が数ミリ短くなってしまった彼女がこちらにずるりと体を這わせる。その目が、水木を見る。口惜しいと、彼女は呪っていた。他でもない水木を、怨んでいた。その白魚のような手が、こちらに伸びる。水木の視界に近づいていく。眼球へ。
「
――
沙代、さん
……
」
水木さん! と何度も己を呼ぶ小さな鬼太郎の声が心に届かない。
忘れた理由は、あっただろう。霞がかったような頭の中で、同じように髪まで真っ白になった人間を思い出す。確か、彼は記憶だけじゃなく、正気まで失って。だから、水木は助かった方なのだ。
どうして忘れたままでいられたのか。そんなことは明白だった。たった一人の少女も救うことができず、ただ地獄の中で死なせたすべてが
――
あまりに、辛くて苦しかったから。思い出すだに、偲びなかったから。
そんな自分勝手で、どうしようもない理由で、己は彼女をなかったことにしたのだ。
許されるはずもない。
涙が溢れてくる。同時に、吐き気も。彼女の指が、この目を抉り取ってしまったら
――
それで、少しは、許されるのだろうか。
一人の少女の、真摯な気持ちに、ほんの少しも向き合わずに利用した罪について。
絶望と怨みだけを纏い、救いは訪れず、犠牲になった彼女に、殺してもらえれば。
「ああもう
……
――
お父さん
‼︎」
本当に、直前。
彼女の指が触れる寸前に、呼ばれた言葉に、目が覚めた。
「っ
……
!」
顔を傾ける。瞬間、彼女の指がさっきまでそこにあったであろう部位を抉るように掠める。避け切れなかった頬が切れたであろう、痛みが走る。
「お、わっ
……
!」
「避けましたか⁈ 避けましたね!」
腕の中で鬼太郎がようやく動き出して、バランスが崩れる。畳に倒れ、腕から抜け出した鬼太郎が慌てたように水木の顔を触る。
ペタペタと、柔らかな手で。
「動けなくて
……
でも、良かった
……
!」
は、は、と息をしながら沙代を見る。いいや、どうしてあれを沙代だと思ったのか。顔のない女。怨みの塊であるそれは、正しくは
沙代そのものではない
。記憶を失っている間は忘れていた視方も、思い出した。
「
……
怨みの残滓です。哀れな」
「鬼太郎
……
!」
髪の毛の一本を立てて水木を守るようにいる赤ん坊の鬼太郎を、ソレが取り込もうと攻撃する。「っ、く
……
」小さな体では、まだきっと耐え切れない。慌てて、その体に覆い被さった。
「なっ、ダメです、お父さ
……
」
「が
――
ッ
……
!」
体全部がビルの倒壊に巻き込まれたような重みでぐちゃぐちゃになる。目からも鼻からも血が出て、このまま死ぬのか、と思った。
カラン、と。
美しい、下駄の音。
出会った頃が見る影もない、包帯まみれで、爛れて死ぬだけの病に罹った大男。
醜く崩れた体と顔で、不気味に笑った女。
まるで人を怖がらせて、揶揄うように悪戯めいたことをする、と思ったことを振り返る。本当にそうだったのかもしれない[#「本当にそうだったのかもしれない」に傍点]。何もかも忘れてしまった水木を、直接会っても思い出せなかった水木を、彼らは責めても良かったはずなのに
――
そんなことはしなかった。
ただ、彼らにとって、幽霊族にとって。愛しい愛しい、たった一人の子供を。
人間の水木なんかを信じて、託したのだ。
「そうじゃ、だからのう、沙代さん」
……
意識が溢れるくらいの、痛みと痛みと痛みの中で。
懐かしい声がする。何もかも忘れてしまっても、思い出すことに耐えられぬ罪悪感があっても、忘れえぬ、大切なもの。
飄々として、どこか不気味で。でも、酒を飲むと泣き出して、人間よりも人間の気持ちを大切にしていた。あの時、水木は確かに羨ましかった。成り上がって既得権益者を見返してやるとがむしゃらに走って、なんでもしてきた。大切なものなんてなかった。金と名誉だけが欲しかった。だけど、その優しい声は。優しすぎて、人間のせいで死んだアイツと、その妻は
……
。
あまりに美しくて。手が届かない星々で。
怒りよりも怨みよりも、泣いているたった一人の赤子を守ろうと手を伸ばした彼らすべてが
――
それだけの優しさが、この世に残っていると教えてくれた。
「父さん
……
!」
「この男を連れていくのは、やめてはくれぬか? 儂の
……
この子の、大切な人間なんじゃ」
ああ、きっとアイツは。
あのどこまでも優しい顔で、優しさで、それでも決して引かぬ眼差しで、心から言っているのだろう。
そこで、水木の意識は途切れた。
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