hinohi_no
2023-02-13 20:44:10
17486文字
Public ザファ
 

あなたのいない世界が最後

ザファ。宮城に幸せになって欲しいだけのお話です。17482字。

 奢ってやるから飯行かね?
 それが一年ぶりに一時帰国した際に来た三井寿からの連絡で、奢ってくれるならどこでも行くっすよ、と返して、宮城は久方ぶりの日本の空気を大きく肺に吸い込んだ。
 アメリカの雑踏に慣れると、思いの外懐かしい。ずっと住んでいたのは日本で、話していたのも日本語だったのに、今うっかり子供とぶつかりそうになって出た単語は英語だった。肌が焼けてるのも相まって、子供は「お兄ちゃん、外人さんだー」と駆けていった。
 お兄ちゃん、ずっと日本人だよ〜〜……

 
 高校卒業と同時にバスケットボール奨学金を利用して渡米、制度の一環としてアメリカの大学――プレップスクールに行くことを決めた。
 プレップスクールとは、大学進学の準備や、より高度な教育のためのポストグラデュエイト学年、というやつらしく、つまり高校四年生にあたるらしい。なので、まだ大学じゃない。日本は高校三年で終わるので、四年目をアメリカの高校で過ごすというわけだ。
 奨学金といっても、金に困っている人間だけが使えるものではない。誰だって応募資格があって、合格者も1名には限らなかった。ビデオで自分のプレーを撮って送り、一次面接。最終トライアウトでは、実際にアメリカに行って、派遣先のプレップスクールのコーチが合格を決める。プレーするメンバーの中には、山王高校の沢北もいたりして、お前もう留学してなかったか⁈ と思いつつ、本気で吐きそうになりながらボールを持った。
 宮城リョータは天才ではない。本当なら、ナンバーワンポイントガードでもない。けれど、バスケをやり続けることを誓った日からずっと、ここで生きていくと決めていた。
 だから、息を大きく吸い込んで。
 震えを誤魔化すように、リストバンドを触る。大丈夫。手先まで冷え切って、立っていられないくらい頭は真っ白で、心臓は痛いくらい鳴っていても。
 宮城リョータは、これを逃したら、アメリカに学生のうちに行くことなど、不可能だ。行けるのか。そもそも行って、何かできるのか。何も分からない。誰も、俺の未来なんて知らない。
 そんなことが、呆れるくらい怖かった。
 逃げ道を探して生きてきた、弱い自分。
 だからもう、逃げないと決めて――走り出す。無我夢中だった。
 それが、人生最高のプレーができた日。
 
 
 
 合格の連絡がきたときは、本当に崩れ落ちてしまいそうだった。みんなに祝われて、家族でもケーキを食べて。なんだかとても、俺は恵まれていると感じた。
 留学までにしなきゃいけないことはいくらでもあった。その中でも英語が難関で、多少日本で単語を勉強したくらいではやっぱりダメだった。
 机上の単語と異なるネイティブの英語に関して、当初は全く聞き取れなかったのだ。同奨学金で挑んだ先人たちの言う通り、例に漏れず、宮城もプレップスクールにて死に物狂いで英語に挑むことになった。
 なんとかチームメイトが言っていることが理解できるようになったのは三ヶ月目。その間、バスケの練習も減らさないで勉強していたのは、ほとんど意地だった。
 俺からバスケを取ったら何も残らない、という意地。
「宮城、飯食いに行かない?」
 毎日睡眠時間削って全部取りこぼさないように走っている間、同じくアメリカにいる沢北にも飯を誘われたっけな、と思い出す。沢北もまた、当たり前のように合格していた。
 アメリカにいる同い年同士。自分とは違う高いレベルのプレップスクールに通う沢北。それでも、互いにアウェーの日本人……アジア人という観点では同じだった。
 負けず嫌いが高じて、俺も沢北も弱音を吐くことは全くなかった。明らかに俺が寝不足でフラフラでも、沢北は俺とハンバーガーを食いながら「今度、NBAのチケット獲れそうなんだ」なんて言ってきたし、俺はメチャクチャ興奮してそのチケットを分けて欲しいと頼み倒した。かくして、山王高校の絶対的なエース沢北は、俺のチケット獲得代行になったのである。
 弱音を吐かないと決めたまま、英語がなんとかできるようになって、急に周りの話す言葉が理解できた。「ほんとだったんだな、急に理解できるようになるってやつ」とこぼした時、沢北も大いに同意した。
「来る前に英会話教室通ったんだけど、あんまり意味なかったな〜〜。やっぱりネイティブの英語を直に聞くのが一番だ。俺も全然最初分かんなかった」
「英会話教室って……駅前にあるようなやつ?」
「そう、頑張って通ったんだけどな……
 英会話教室に真面目に通う姿を想像して、ちょっと笑ってしまい、沢北に不貞腐られた。スーパーエース様は、案外泣き虫だったり感情豊かで、飄々とした自信家の中に親しみやすさもあったりして、湘北のスーパーエース様とは違う。まあ、流川は宮城にとっては可愛い後輩なのだが。
 なお、流川って可愛いところあるよな、と言ったらもう一人の可愛い後輩はリョーちんは目が腐っていると騒いでいた。お前も可愛い後輩だよ、と続けたら嬉しそうにしていたので、マジで可愛い後輩である。
 しかし――英会話教室。宮城は、そんな高いものに通うことを最初から選択肢に入れてなかったから、なるほど、と思った。沢北は元々、奨学金を使わず自費で留学もしていた。実感する。こういうことか。
 目の前の人間は、同学年の友人は――宮城と、スタートから違う人間だった。庭付きの家があって、そこでずっとシュート練習に励んできたとか。あちこちから親父も借金して、と笑っていた。
 宮城の母に金を貸してくれる銀行は、なかった。でも、沖縄にそのまま住んでいたら、どうだったろう。分からない。それは母が選んだ道だ。あそこに住んでいることができなかった理由。それは、やっぱり、俺のせいだったのかもしれないし、違ったのかもしれない。結局――母は、子供の宮城には話してくれなかった。
 でも、それは宮城の話だ。選択と結果と環境のことだ。決してバスケをやれない環境じゃなかった。ご飯を食べて、眠って、学校に通って、バスケをすることができた。そういう人生を、宮城はもらっている。
 だから。羨むでも、妬むでも、怒るでもない。そんな感情は毛頭ない。父親が死んで、立て続けに兄が死んだ。それだけのことだった。誰かの人生と己の人生を比べることに意味はない。俺が辛かったように、苦しんだ時間があったように。沢北だって辛い時期があったのだろう。
 花道だって。旦那だってそうだ。三井サンも、苦しんだ。俺は、バスケを取り上げられなかった。毎日生きることができた。
 だから。
 宮城リョータは決して、哀れな存在ではない。
 周りを見れば、両親がいて、なんの確執もなく、兄弟が生きていて、お金がある人間がいたとしても――自分一人だけが、辛い境遇だとは思わない。
 宮城が許せなかったのは、ずっと。自分自身だったのだから。
……沢北」
 一時帰国する前の日も、沢北の家でバスケのビデオを見ていた。ただ、なんだか沢北の様子が普段と違っていて、不思議になって聞いてみた。お前体調でも悪いの? だったか。
「いや、そういうわけじゃ……ないんだけど」
「うん。どうした?」
……ちょっと落ち込んでて」
「お前が⁈」
 驚いたのは、沢北が落ち込んでいることじゃなくて、それを宮城に告げたことだ。こいつ、日本人ならではのアメリカでの辛さとか俺にぜってー言わなかった癖に、今⁉ 何⁈
「な、なんか俺にできること、あるか?」
 こんな沢北は初めて見た。流石に心配で、顔を覗き込む。山王時代から変わらない髪型。でも、フィジカルはかなり鍛えられている。
――……ハグしていい?」
……………は?」
 本気で理解できなくて、思考が停止した。
 じっと、沢北の黒い瞳がこちらを見ている。笑い飛ばすような話でもないらしい。
 よく分からないが、メチャクチャ突拍子もないが……沢北の目には全然、悪意とか欲がなかった。ハグは――アメリカで慣れ親しんだ文化だ。チームメイトともよくする。
……まあ、変なことしねーなら……?」
 でも、改めて許可するのって、照れる。頬をかいて、ちょっと俯いた隙に、沢北がハグしてくる。
(う、うおっ……
 チームメイトとの、アメリカ人とのハグは、文化だなーと思うけど、日本人同士のハグって。
 厚い胸板。太い腕。宮城よりでかい体。すっぽり抱きしめるように回される腕。肩口に置かれた顎。
 心臓が脈打つ前に、宮城……と沢北がなんだか滅茶苦茶悲しそうな声を出すから、とりあえず、諦めることにした。
…………
 諦めて、なんかもう、この濡れた犬みたいな沢北が可哀想になって。いいか。いいや。もう、どうにでもなれというか。沢北は大事な友人だ。気恥ずかしいとか照れくさいとか、一旦全て棚に上げて。
 その背中に腕を回す。筋肉すげーな、と思いながら、抱きしめられて驚いた体をなんとか動かして、宮城も沢北の体を抱きしめる。
 メチャクチャ恥ずいし、俺、何してんだ……? とよぎりつつも、こんなに他人を意識してハグしたの、初めてかもしれないと思う。女性にはすぐにフラれるタイプなので。
……宮城は」
「お、おう」
 なんかもう、いろんな理由で心臓バクバクなんだけど。
「無神経な俺のこと、恨んだりしてないのか?」
――なんでお前のこと恨むんだよ?」
 とことん、今日の沢北は分からない。
 しかし、落ち込んでいる理由はなんなんだ。誰かに恨まれたのか。生きていればそんなことはある。とはいえ――悪意に怯むのは当然のことだ。
「はあ、あのな……お前みたいなメチャクチャバスケが好きで、頑張ってるやつのこと――他の誰が恨んだって、俺は恨まねーよ」
……宮城って……
「あ? って、……
 何だよ、と言おうとして、沢北がボロボロと泣き出したので、なんかもう、仕方なく。
 沢北の背中をトントンとさすってやって、こんなに沢北を傷つけたやつを、どうしようもないやつだと思った。
 
 
「あ、リョーちん! この天才の活躍を見に来たのか!」
「おーおー相変わらず元気で何よりだ」
 懐かしの体育館に足を踏み入れれば、可愛い後輩が迎えてくれた。桜木花道。とことん素直でバスケが好きな問題児。
「宮城さん……? アメリカでバスケやってるって、あの」「お前宮城さんのファンなんだろ、いいのか?」「ファ、ファンじゃねーから! ……俺のポイントガードの手本なだけだよ……!」
 知らない顔ぶれの部員も大勢いて、体育館は活気と熱気に満ちている。山王高校を破ったあの日から、湘北高校は強豪校として名を馳せている。絶対エース流川、天才桜木。普段はどれだけ犬猿の中であっても、二人が力を合わせるとすごい試合になった。
「流川は?」
「あっ、それは……
 禁句です、と誰かが呟いて、花道を見る。表情で分かった。メチャクチャ怒っている。不貞腐ているとも言う。なるほど、またなんかジュニア選抜とかアメリカ留学とか行ったな。
「この天才を差し置いて……
「花道、俺と1on1、やるか?」
 放っておくと、キツネー! と叫び出しそうだったので、バスケットボールを放り投げる。
「ほほう、いいのかリョーちん……オレは過去のオレとは一味違うぞ……!」
「わぁーってるよ。天才だからな」
 実際のところ。
 花道は天才だった。宮城もそう思っている。正直、流川だってそう思っているんじゃないか。高校からバスケを始めた男は、僅か四ヶ月で湘北高校になくてはならない存在になった。リハビリを終えて戻ってきても、すぐにメキメキと上達して。
 花道の、久々にボールを触った瞬間の嬉しそうな表情を覚えている。
 バスケのことだけ考えて生きてきた奴がいる。それは沢北や、流川みたいな人間だ。けれど今。花道はそいつらと同じように、バスケを愛し、バスケに愛されている。
 だから、流川だって無視できないし、意地を張っているけど認めているんだろう。
 宮城は――バスケのことだけを考えて生きてきた、わけではなかった。ただ、バスケだけが生きる支えだった。それでも、三井と喧嘩して、バイク事故を起こして沖縄に帰ったあの日。
 馬鹿みたいに不甲斐ない自分に、何をしてるのか分からない己に、いつかここから離れてしまった日を想って。
 全部、全部、吐き出した。涙と叫びが続く限り叫んで、それもいつか涙は止まる。
 もう嫌だと叫んでも、立ち止まっても。
 宮城リョータは生きている。
 本当にくだらなくて、どうしようもないのに、それでも――ソーちゃんじゃない己がここにいた。ずっと、ソーちゃんになれず、ソーちゃんの言葉を守れず、何もできない虫のような。
 無様でみっともなくて息苦しい。忘れていく。声も、音も、温度も、質感も、記憶も、あなたの全てを忘れていく。大好きな人。大好きなもの。懐かしくて失いたくなくて愛おしいその全て。
 俺が生きている限り、新しい何かと共に思い出せなくなっていく。
 それでも――バスケだけはやめたくなかった。
 誰かの悪意で、己の諦念で、雁字搦めの現実で、事故みたいな暴力で。本当にもうやめてやろうと思ったのに。チームメイトはうるさくて、不良に目をつけられて、その不良は――かつてバスケを好きだった人で。
 こんなはずじゃなかったよ、ソーちゃん。きっともっと、上手く生きてこられた。母さんを笑顔にすることができたんだ。でも、俺は馬鹿だから。
 こんな生き方で、ここまで来た。
 バスケだけやって走ってきたんだ。
 歯を食いしばる。涙は止まっている。洞窟から出て、いつまでも美しい海を見た。ソーちゃんが死んだ海。
 不思議なほどにスッキリした心は、まるで最初からそうだったかのように、体を突き動かす。
 ねえ、ソーちゃん。
 俺は、あなたのいない世界でバスケを続けていくよ。
 あなたみたいになれなくて、あなたのように生きられなくて。あなたがいない世界を、受け入れられなくて。あなたがここに居たら、生きていたらと、そんなことばかり考えて。
 あゆむ足は鉛のように重いけど。
 引きずる体はもう諦めろと騒ぐけど。
 ここで海に飛び込んだら、きっと、ソーちゃんと同じところに行けるのだろう。沖縄の海。神奈川と違う、その海に。
 それでも生き続けて、バスケをしていくと決めたこと、どうかどうか、許してほしい。俺にはバスケしかないんだ。俺にはソーちゃんとの思い出があまりに美しくて。俺には母を支える決意もなくて。
 だけど――いつまでも、弱いままでも。本当は、心臓バクバクで、怖くて怖くてたまらなくても。
 バスケを続けるよ。この呼吸を止めないよう。
 この一瞬一瞬が最後でもいいように。走り続けようと決めたのだ。
 ……そんな己が、純粋にバスケを愛して続けてきた人間たちを嫌いになれるはずがなかった。
――お、そうだ、リョーちん」
 思いっきり1on1をして、花道の成長に驚いた。それじゃ、帰るか〜〜と汗を拭く中で、不意に。
「ぶっ」
 潰れたカエルみたいな声が出たが、急に物凄くデカくて分厚いものに視界と体を塞がれたからである。何が起こって……⁈ と驚いて、それから――抱きしめられているんじゃないかと気がつく。
「えっ、おい、花道サン……⁈」
 吃驚して敬語だ。なんだなんだ。すごい、抱き込まれている。改めて花道、デケェ、体格がいい、ユニフォームが汗臭い。
「何――
「ん。リョーちん頑張ったな。褒めてつかわそう!」
……はぁ……?」
 ワッシャワッシャと体を上下に揺すられて、しかし何やら本当に笑顔で褒めているような気配に、なんなんだ、と思いつつ。
 こんな直球に頑張ったとか言われること、なかなか無いので、怪訝な気持ちと胡乱な気持ちに混ざって、なぜだか泣きそうになった。
(っぶね……!)
 後輩にハグされてヨシヨシされて泣いたなんてことになったら、宮城先輩の威厳は地に落ちる。
「い、いや……何が何だかわっかんねーけど……ングぅ……⁈」
 さらに強く抱きしめられて、普通に背骨が折れそうである。花道の全力でぎゅうぎゅうに抱きしめられて、数分――暴れても暴れても解放されず、屍みたいになってようやく解放された。
……………死ぬかと思った……
「ナハハ」
 いやナハハじゃねーんだわ……と思いながら、バキバキに抱きしめられてふにゃふにゃの体で立ちあがろうとして――誰かが手を差し伸べていた。その手を掴みながら、礼を述べて顔を上げる。
「サンキュ……って流川⁈」
 どっか行ってたんじゃないんかい、という思いと、あの流川が手を差し伸べている⁈ という二重の驚きでまた倒れるところだった。
「ん」
 お前、旦那が倒れた時ですら手を差し伸べなかったのに……と呆然としながら花道を見る。
「キツネめ……オレだって秘密の特訓はやったんだからな……
……なんだ? 特別練習でもやってるのか」
 こく、と頷く流川は昔から美形だったが、相も変わらず、いや、さらに美しいかんばせをしている。とにかく、今でも流川は日本最高峰の選手のくせにまだまだ強くなるつもりらしい。どこまでも上手くなって、勝つことにこだわる男。それでこそ、湘北高校のキャプテンである。
 ……宮城としても、キャプテンを指名するときはそれなりに悩んだ。流川は素晴らしい選手だ。エースとして申し分ない。ただ、キャプテンとしてはどうか? しかもアメリカとか遠征とかに呼ばれがちだし……なんて思うものの、花道にキャプテンを任せて大丈夫か……? など悩んで悩んで悩んで――まあ、流川が留守の時は花道が/花道がいない時は流川が、みんなの精神的支柱になってくれるだろうと流川をキャプテンにした。
 無論、花道にはとことん責められたが。
「久しぶりだな」
……っス」
 口数は花道以外には相変わらずのようだけど、こうやって誰かに手を差し伸べてくれたりはするらしい。別に、流川がそういうタイプじゃないのは知ってたから、するべきとは思わなかったけど。
「はは、花道に骨バキバキハグされたから、助かった」
「愛情ハグだろ、リョーちん……!」
……どあほう。そういうことじゃねえだろ」
「何ーっ⁈」
「いやなんの喧嘩をして……うわっ?」
 流川が繋いだ手ごと、俺を引っ張る。その高い身長のため(こいつ、また背が伸びたか?)胸の辺りに顔が埋まる。いや、なん、またこれか――「って、お、あ……?」
 くるっとそのまま向きを変えさせられる。背後に流川。それに、後ろから抱きすくめられる。
……どうすか」
 どーすかもこーすかも、俺には何が何だかさっぱり分からないんですが。でも、お前がいい声だってことは分かったよ! 耳元で囁くな!
「お前ら……俺で遊んでるんじゃねえだろうな……?」
「なんで俺がどあほうと」
「オレがこいつと⁈」
 そっちじゃない。一緒にって方に食いついて欲しいわけじゃない。しかし、まあ。
 なんか、本当にマジで何がなんだかわかんねーけど。流川も花道も、ふざけてやってるわけじゃないらしい。
……あのさ」
 流川の手。背中の温もり。そろそろ、日本人とのハグにも慣れてきた頃だ。単純にあったかいな、と思う。流川の体にもたれかかって、わかんねーけど、と前置きをしつつ。
「わるかねーよ」
 どうなのかと聞かれれば、それが答えだった。
 ぎゅう、と抱き込む手の力が強くなる。人とベタベタすること、ソーちゃんが死んでから無くなったなあ。そりゃ、知らんやつとベタベタはしたくないけど――こいつらとだったら悪くなかった。
 女の子みたいにふかふかしていなくて、厚い筋肉の身体だけど。
 ハグされること自体は、照れくさいけど嫌じゃないと知った。


 やたらめったら後輩にハグされて、散々衆目監視の中で恥ずかしい目にあったので、安西先生が出てくる前にさっさと退散した。本当に喧嘩の絶えない、けれど憎めない二人が――今日はなんだか訳もなく優しかった。普段から優しくない訳じゃないけれど。
 変だったなあ、と思いながら、三井サンとの待ち合わせ場所に向かう。三井サンにしては小洒落た喫茶店だ。外からガラス張りで中身が見えて、最近オープンしたばかりなので賑わっている。
「って……アヤちゃん――?」
 忘れるはずもない、彼女は宮城のこころの中のオアシス、高嶺の花、美しき彩子さんだった。
 そんな彼女が男と一緒に座っている。
 死ぬかと思った。フラフラとガラスの近寄って、あ、あやちゃん……と呟きながら泣いた。不意に、中の彩子サンがこちらを見て、飲み物を吹き出しかけた。
「りょ……リョータ。何してんの……?」
 店内に入る。彩子サンは今日も美しい。一緒にいる男が、本当に彼女に相応しいのか、苦しい人間を馬鹿にしない彼女の隣に立っていいのか。既に若干キレながら向かいの席に座ってる男を見て――震える。
 三井だった。
「お、リョータ。おかえり」
「三井サン……あんた……
「嫌な予感がするわね」
「アヤちゃんを幸せにする覚悟が……あるのか……?」
「駆け込み誤解すぎる……!」
 三井サンと彩子サンにダブルで小突かれた。どうやらそういうことではないらしい。本当に良かった。
 アヤちゃんは綺麗だ。アヤちゃんが大好きだ。試合中、何度も彼女の存在に救われた。山王高校との試合前、彼女を好きでいて良かったと、噛み締めるくらい思ったのだ。
 彼女には、世界で一番幸せになってほしい。それが宮城リョータの願いだ。
 苦しくなったら、何かやることを決めとこう。
 そう言ってくれた癖は、今も続いている。ここぞという時、緊張とプレッシャーに押しつぶされそうな時。最終トライアルの日も、宮城は己の掌を見た。
「たまたまよ、アンタが帰ってくるって聞いたから、ご飯一緒にどうかって」
「え、アヤちゃんも一緒……⁈ 三井サン、アンタ最高!」
 ――嬉しさのあまり、久々の三井の体に、抱きついてしまった。
「あ」
 ハグされすぎて、ハグへの距離感がバグった。
 三井は――やっぱりデカくなっていた。体も、背も。俺も割と鍛えたんだけどな、と思う。それでも、バスケットをやる上では低い身長のままなのは間違いなかった。
「お? うあ? あ?」
 三井は無言で、宮城の腕とかをペタペタと触って――信じられないくらい優しい手つきで抱き返してきた。
「宮城」
 ちょうど胸に抱えるように。しかも、その声がまた辛そうなのだ。ここまで来ると、宮城も己に原因があることに気づいた。
 そっ……と抱きしめられながら彩子を見る。宮城が何も分かっていないことを察したのだろう。とことん聡明な彼女は、あー……と頷いて、それから厚い唇から音を紡いだ。
「リョータ、インタビュー受けたでしょ。忘れてた?」
……インタビュー……?」
 なんだっけ、それ。と首を傾げている間に――三井は泣き始めた。
 でかい男が抱き合いながら、喫茶店で。人目がすごい。凄すぎる。
 ていうか、もしかして……沢北も、俺のせいでした……


 そういえば、アメリカで日本人記者からインタビューを受けたことがある。割と丁寧に色々聞かれて、いい人だったから真摯に答えたのだ。いい機会だとも思ったのだろう。アメリカで英語が分からず、少し弱っていた時期だったというのもある。
 すぐに掲載されるかと思いきや、雑誌が廃刊になって、記者からは謝罪の連絡がきた。すまない。もし他の雑誌に載せられるようなら、その時は連絡する、だったか。
 かなり喋りすぎたと思っていたので、正直ほっとした。
 そんなこんなで、闇に葬れて良かった……と失礼ながらその時は思ったものだが――どうやら、そのインタビューが、他の雑誌で無事に掲載されたらしい。おいおい、連絡なんて……と思ったが、そういやアメリカで試合に行く前に寮に電話が来ていた気がする。その時はそれどころじゃないから、掛け直すって言ってくれと寮の仲間にお願いした。それ以降すっかり忘れていた。寮のポストも全然見ていない。メチャクチャ律儀な人だったから、絶対送ってきている……
「あー……それで……
 なんでも奢ってやる、と泣く三井に、えっと、じゃあ……焼肉で……と戸惑いながらお願いしたら、本当に焼肉に連れてきてくれた。金大丈夫かな。三井は大学でもバスケ三昧で、バイトはしてないらしいし。
「ああ、金のことなら気にすんな、大丈夫だ。貯金はあるしな」
「あっ……そう? すか?」
 貯金って、子供が自力でできるものなんだ。
 小遣いとか、貰ってなかった訳じゃねーけど。バッシュとか遠征費とかの方がかかるから、基本はヤスと買い食いできるくらいを貰って、あとは直接頼んでいた。
 おそらく、三井は違うのだろう。
「ん〜〜美味しい! やっぱお肉は元気のもとよね〜〜」
 嬉しそうな彩子を見ると自然こっちまで笑顔になる。じゅうじゅうと肉汁を滴らせて焼けたものを、口に含む。日本の味付けだ。白米と合わせると、いくらでも食える。
「うっ……ま〜〜!」
 良い肉なのだろう。怖いので値段は見ないことにした。三井サンが払えるって言ってんだから、払えるんだろう。
「うまいか? たくさん食え、ほら」
 何故か宮城の分まで焼き始める三井に、はあ、と言いながらも有り難く甘える。しかし――なんというか。
 インタビューを受けたのがもう半年以上前なので、あまり覚えていないのだが。
 俺はこんな、会う人会う人にハグされてなんか美味いものを奢られるようなことを言っていたんだっけか。言ったんだろうな。なんだったか。
「リョータ、本当に忘れたの? あれ読んで、花道なんてすごい泣いてたわよ」
「オレは持ってきている……
「うわ、三井サン、なんでですか⁈」
「というか持ち歩いている」
「お守りがわりみたいにされてる……? でも、あー、見せてください」
 ん、と手渡されたバスケの雑誌。それほどページ数を取ってるとは思えないけど、開いたらすぐに辿り着いた。三井が持ち歩いているほどには、このページを読み返してるんだな、と思うと恥ずかしかった。
 
 
 宮城リョータ。
 バスケだけが生きる支えだったと話すのは、
 コート上の司令塔。
 常に余裕を持ち、時に笑顔すら浮かべる。
 けれど、彼の原点には
 いつだって、兄の面影があった。
 
 
――ぅえ」
 読み始めた瞬間、閉じてしまった。
 やばい、恥ずい、何これ。
「ちょ、あの……このノリがずっと続くんです?」
「おう」
……………じゃ、いーっす」
 流石に読めない。一人でならまだしも、三井や彩子がいる前で読むにはあんまりだ。何を答えたかよく覚えてねーし。
「ま、いーわよ。兎に角ね、アンタのこと、全然知らなかったんだーって皆ビックリしたの。すごいね、強がりもそこまで行けば立派だと思う」
――宮城」
 いやあ、それほどでも……? と謎に照れていたら、三井サンが箸を置いた。
「すまなかった」
 頭を下げる三井に、目を見開く。何が? 何に? 俺は、アンタに謝られる筋合いなんてない。ないのに。
「お前のこと、ただ羨ましかったんだ。バスケをしていて、赤木に期待されてるって。勝手にバスケから逃げ出したのは……オレだったのに。なんの関係もないお前に、嫉妬して……多勢に無勢で、リンチした」
――
 情けないことに、手は震えていた。
 あの日も、その前も。宮城は誰かに暴力を振るわれるたびに震えていた。何か理由があるなら理解できた。でも、調子に乗っているという理由で殴られた時、本当にびっくりして。
 ああ、そういうものなんだ、と。
 人は誰かを気に食わないというだけで殴れるし、殴っていいんだ。そういうふうにできているのかと――上級生に殴られて、初めて知った。
 けど、リンチまでされるのは初めてで、本当は怖くて怖くてたまらなかった。殴られて、殴ることは簡単だった。痛みも、記憶も、どうでも良かった。こんなものが人生なんだろう。こんなことが、普通なんだろう。
 バスケを辞めることが簡単なことだって、他でもないアンタが証明していた。あんなにバスケが好きだったろう。あんなにバスケがしたかったんだろう。それでも、簡単に捨てて、蹴り飛ばしてしまえるものだったのか。悲しいし、ムカついて、何もかも嫌だった。ゴミみたいだと思った。雪も、俺も。
 どうして、上手くいかないんだろう。
 どうして、上手くやれないんだろう。
 なんでこんな風に、殴ったり殴られたりして誰かを傷つけなきゃいけないんだろう。
 全部嫌だった。全部に腹が立った。もう投げ出してしまいたくて。俺を辞めたくて――あの美しい沖縄に戻りたくてしょうがなかった。でも、それは宮城の問題だ。
……アンタは、もう謝ったでしょ」
 バスケ部への謝罪をした。それは口でのことだけではない。試合の中で、アンタは一本一本、償うようにシュートを決めた。
 指先までの美しいフォーム。アンタの努力の軌跡。バスケが好きなんだって、投げ出したことがあっても、やっぱり戻ってきてしまうくらい好きなんだって、全身全霊で叫んでいた。
「だから、別に……いいんですよ」
 ずっと昔から、そんなこと怒っちゃいないのに。
 律儀な人だと思って、笑みが溢れる。
――それでも。すまなかった」
 重ねての謝罪にちょっと泣きそうになった。三井が辛かったことくらい、俺だって知っているのに。
「お前が望むなら、オレはなんだってする……一生かかっても責任を取る」
「ぇ、うん……?」
 三井の目が据わっている。やばい、この人、思い込みが激しい人だった。彩子を見ると頷きながら美味しそうにお肉を食べていた。メチャクチャ可愛かった。助け舟は全く期待できなさそうである。
「だから、いざってときは……困ったら、苦しくなったら――オレを使えよ、宮城。絶対に」
――お、おう……………
 使えったってな……
 よく分からないけど、あまりに変な方向に暴走しなくて良かった。とりあえず、苦しくなったら三井に頼っていいらしい。そんなふうに、最後の助け舟となろうとする人間を、初めて見た。俺なんかのために。
「お前のことが大事なんだよ。オレも、他のやつも」
「アタシも。アンタのこと大切よ、リョータ」
 ぽんぽんと頭を撫でられて、まっすぐ目を見つめられると。
 恥ずかしいより先に、あったかいな、と思うようになってしまった。
……ありがと」
 何度も。何回も。数え切れないくらい。
 死んでしまいたいと思う夜があった。生きていたくない日々があった。
 その行為を踏みとどまらせていたのは、なんだったのだろう。恐怖だろうか。母への申し訳なさか。わからなかった。生きている理由も、死んでない理由も。
 それでも、ここまで生きてきたから。俺なんかと思いながら。苦しくて痛くて、泣き叫びたい日々を過ごしながら、それでも生きてきたからこそ。
「嬉しいよ、三井サン、アヤちゃん」
 こんなふうに、嬉しくてしょうがない時間が、奇跡みたいに与えられてしまったのだろう。
 
 
「あーもう……三井サン、酔っ払ってるよ……
 大学二年生になった三井は、酒が解禁されたこともあり、焼肉屋でだいぶ飲んでいた。
 割とフラフラしているのだが前後不覚というほどではなく、物凄く機嫌よさそうに――宮城の手を掴んでいる程度である。程度というか。
「アヤちゃん……
「いや、アタシに助け求められてもね」
 彩子は今日、ハルコちゃんの家に泊まるらしい。流石に女の子一人夜道を歩かせるわけにはいかないので、家まで送ることにした。
 そんで、夜道だからまだいいのだが、何故だか三井に手を繋がれているワケである。
「宮城の手、あったけーな……赤ちゃんみてえ……
「三井サン、赤ちゃんの手触ったことあるんすか? メチャクチャ適当なこと言ってません?」
 しかも指と指を絡めている繋ぎ方である。手汗かいてないかすごい気になるよ。まあこの人、酔っ払ってるから良いかな……
「着いた、送ってくれてありがとー!」
「あー懐かしいな、ダンナの家」
「ハルコちゃーん」
 イヤホンを鳴らす彩子に、ダンナの大学は県外だったよな……と思い出していたら。
「宮城じゃないか。三井も」
「ダンナ!」
 赤木が出てきて驚いた。相変わらずゴリラに近しい見た目だが、今はメチャクチャ親近感が湧く。アメリカでもサイズだけ言えばもっと大きい奴らに囲まれていた。
「いま春休みでな。あ、ハルコはリビングだ」
「お邪魔します。じゃ、ありがとねリョータ」
「宮城も、少し上がっていくか?」
「あー……や、大丈夫」
 横を見ると、宮城の肩に顎をかけてベタベタしてくる三井がいる。ダンナの両親にこの痴態を見せるのは、いくらなんでも憚られた。
「そうか? ……宮城、デカくなったな」
 ダンナの家のリビングからは、ハルコちゃんの声と、テレビの音。最後に旦那と会ったのは、最終トライアルで合格発表されて、みんなから油性マジックでメッセージが書かれたユニフォームをもらった時。
 宮城をずっと、認めてくれていた赤木の存在のありがたさを、忘れたことはない。
 
 6チャンネルが放送しない場所もあることを知ったのは、神奈川に引っ越してからだった。
 みんなが揃って6チャンネルと呼んでいたのは、アメリカ放送網――通称AFNというチャンネルで、全部英語の番組だ。何が目当てだったかといえば、勿論NBAの中継である。
「ソーちゃん、始まるよ!」
 兄をせかしながら、ソワソワとテレビの前に座り込む。おお、と少し余裕を持って現れたソーちゃんも隣に座る。
 バスケットボールの頂点。誰もが憧れる、バスケの本場アメリカ。最高峰のプレイヤーの目を奪われる鮮やかなプレイ。
 うわあ。すげぇ! 見えなかった。今の見た? 絶対入る! 今のどうやったん? ソーちゃんできる? 俺もいつかできるようになる!
 ねえ、他のチャンネル見たい〜〜と入ってきたアンナに、兄が一緒に見ないか? なんて言うけれど、興味のないアンナは明日のチャンネル権はワタシだからね、と去っていった。
 テレビに映る全て、音声も含めて英語だったから、何を言っているのかは全然分からなかったけど。
 ――沖縄から引っ越すと言われた日、それら全てを失うことになった。
 沖縄以外の場所なんて知らない。飛行機で行かないといけない、沖縄じゃないところ。友達もいた。何より、この家も風景も。全部、全部。ソーちゃんのいた場所だった。
 子供には自由なんてない。引っ越すと言われれば着いていくだけだ。だって、いくらここに残ると喚いたって、家賃や税金、光熱費なんて支払えないのだから。いやだとどれだけ懇願しても無駄だった。沖縄にいたかった。でも、辛くて苦しいのも事実だ。何よりも。
 母が、自分の言うことを少しも聞いてくれないのも苦しかった。
 
「リョータ君に、みんなで書いたんだ」
 クラスメイト分のメッセージが書かれた寄せ書きを受け取る。
 宮城くんは転校します、と担任が告げた時の、えーっという声。まるで他人事みたいに現実感がなかった。生まれてから一度も転校しない人間もいる。沢山する人間もいるのだろう。自分はどうなんだろうと思った。
 沖縄を去るのは、仕事がどうとか言ってたけど、結局のところもうソーちゃんがいないからだった。父親も。そして、それが母さんには辛い。
 俺もこのまま沖縄にいればいるだけ、ずっとソーちゃんに比べられることになる。兄とは違う、兄にはなれない。宮城リョータは宮城ソータにはなれない。なれるはずがない、なれるわけがない。
 7番のユニフォーム。この番号がよかった。絶対にそれだけは譲れなかった。例えいくら比べられても、比べられるたびに、ソーちゃんがそこにいた。
 ……もう、クラスメイトたちに会うこともないのだろう。
 寄せ書きを眺める。転校しても元気でね。ずっと友達だよ。リョータ、がんばれ! どのクラスメイトとも、別に仲は悪くなかった。バスケ部のチームメイトも。
 ただただ、親の都合の一言に全部混ぜて、ぐちゃぐちゃにして、子供はこうして子供とのつながりを失う。簡単なことだ。もう二度と会わない人々。もう二度と、俺を人生に入れない人々。もう二度と、過去から脱しない人々。
 
 それでも――こうやって、久々に会っても変わらずにいられる。そんな人もできたのだ。小さなことかもしれないけど、それは嬉しいことのはずだ。
「宮城」
「はい?」
 三井をあんまりこのままにしたくないのでさっさと駅に行こうと赤木と別れる。春休み中ならまだ時間もあるし、後日誘おう。そう思って簡単に別れを済ませた瞬間、呼び止められた。
……お前」
 走り寄ってくる彼に、同情だけはされたくなかった。
 赤木の目は、どこまでも真っ直ぐにバスケを愛していたから。
「頑張れよ」
 ぽん、と肩を叩かれて。
 その暖かさに息が詰まった。
 アンタは俺を、バスケ部に必要だと言ってくれた。その不器用なあり方に、問題児と堅物と言われた俺たちは――それでも、一緒にバスケをした。その日々を忘れない。忘れていない。
……ああ、ダンナもね」
 なんだか、凄くくすぐったい。これ以上いたらダメになってしまいそうだと思う。今日はみんなが宮城に優しすぎた。そんな優しくされるようなこと、何一つしていないのに。
 三井を引っ張って歩き出す。みんなで赤点を取って勉強会をした時と同じ、懐かしい道。高校の頃とは何もかもが変わっていく。それでも、変わらないものがある。

 あの頃、放課後はヤスと一緒に肉まんを食べて駄弁っていた。小遣いは微々たるものだったけど、ヤスと話す時間は居心地が良かったことを覚えている。案外、ああいう小さな時間の積み重ねが、生きるのを嫌になる最後の一歩を、宮城の何かを、踏み留まらせてくれていたのかもしれない。
 今度、ヤスに連絡して、肉まんでも食べようかなと思う。

 三井を駅に押し付けた、帰り道。
 家に帰れば、母は遅かったね、と言いながら、宮城を家にあげる。嬉しそうな妹の声。
「おかえり」
「リョーちゃん、アメリカですっごい変わったー!」
 別に、誰かにこれを言えなきゃ不幸なわけじゃない。それでも言われるからには返すべき言葉があった。
 静かに息を吸って、アンナに、母に、笑うように声を出す。今までと同じように。これからと同じように。
 こんな小さなことが、やっぱりこれからの宮城を支えていくのかもしれないから。
 
 
「ただいま」