hinohi_no
2025-07-21 18:09:23
37194文字
Public 他アジア映画
 

Where there's a will, there's a way.

SPL2 チーチャイ/獄チャイ 2017年発行

 男の爪先が、鼻をかすめた。
――……!」
 一拍遅れて風を切る音が耳に届いて、掠っただけで痛みを覚える鼻に、戦慄を隠せない。
そうとも。
 カンフーの才能があると褒められ、ある種神童と呼ばれた己ですら、この男にかなうかどうかは分からない。
 男が肘を振り下ろしてきて、それを手の甲で受け止めた。受けた衝撃を利用し、ぐるりと半回転して男の背中にまわりこむ。後ろから羽交い絞めして――背中を膝で蹴った。
「ッ、」
 暴れる力が強く、羽交い絞めを解かれて正面から脇を蹴られる。ずしんと重くインパクトのある打撃に息が詰まる上、そのままシャツの襟を掴まれた。その手を振りほどこうとしたがびくともしない。襟が伸びるだけだ。「ッ、ふん……!」力をいれて、頭突きをする。想定以上の痛みは俺だけなく、相手も同様のはずだ。
手の力が緩んだから、殴るようにして距離を取る。
 男の褐色の肌には玉のような汗が浮かび、それは皮膚をつたいぱたぱたと零れながらも、疲労の色が見えるわけではない。代謝がいいのだろう。ふぅふぅとこちらを睨みながら体に力をため込む男は、あたかも猛獣のようだ。
――ヤァアア……!」
 男が気合を入れながら、こちらに向かって駆けてくる……その、恐怖と高揚をなんといえばいいだろう?
だって普通の人間なら、男の打撃を受けたら死にかねないのに、容赦も油断も一切ないのは――俺を敵と認めているからだ。全力を出すに相応しい相手だと認識しているからだ。
黒々とした意志の強い瞳は優しさに満ちていることに多いけれど、今はただ、困惑と俺しか見えていない。それだけで、十二分に胸が躍る。
 ざわ、と鳥肌が立った。高揚からではない。恐怖からでもない。男から少しばかり教えてもらったことがある、見覚えのある技が繰り広げられようとしていることを察知したからだ。
 男の、両飛び膝蹴り――それを、どう避ける? どうすれば避けられる? まるで永遠に思えるような時間に、時折、なる。スイッチの入った格闘家ならば一度は経験したことがあるだろう。汗がふき出る。必殺の威力を、かつて奴は酷く非現実的にかわした。ああうまくは、いかない。横に体幹を移すのが、こんなに長く思えることはなかった。俺はこれほど、遅かっただろうか?
 半歩分、横に、ずれた。
 全身は無理だった。それだけのスピードで男は迫っていた。うなじが焼け付くようなぴりりとした気配は、強者との闘いでのみ、起こる感覚。興奮してならないのに、冷静な部分が残っている。燃え上がる己と、冷めきっていく己がそこにいる。
 半歩分、身体が残り、片方だけ膝が腹に、入った。
――ぐっ……!」
 その威力ときたら、予想以上だった。
 視界が揺れて、地面に倒れる。一メートルくらいは吹っ飛んだのだろう。着地した男が、気迫冷めやらぬままこちらを見る。ああ、強い。あんたはやっぱり、どうしようもなく、強い。
 一度目は、あんたに負けた。己は訳が分からないまま暴れだして、あんたに取り押さえられて、ここはどこだと目を剝いたのだ。知らない人間、知らない場所、知らない言葉。己が狂っていて、見ているものが幻覚なのではないかといくらか疑ったのも、無理はないくらい、なにもかもが分からなかった。ただ、あんたから受けた痛みだけは本物で、それだけは確かな何かで。奴の言葉から、今自分がどんな状況下にあるのか、少しずつかみ砕くように理解して。
 二度目も、取り押さえられた。高いところから落下した俺は痛みに肺が圧迫されたように苦しんで、目的のものも奪取され、動く気もなくなったのだ。あんたは強くて、あんたがいる以上、ここから出られるのかと、絶望を覚えるほどで。
 けれど、その間に――少しだけ、話をした。
 あんたに勝てるかどうかは分からないけれど。
 三度目の正直、というやつだ。あんたは獣の息を吐く。
ああ、格好いいな。
黒髪も、黒曜石の瞳も、褐色の肌も。何もかも。
あんたは世界で一番、格好いい。
その、存外に高い声が、俺の名を呼ぶ。
――チーキット……!」
 愛する娘を誘拐した犯人に向かって――男は叫んだ。





 けれど、奇跡はあるし、神はいるのだ。
 ああ、奇跡はある。かみさまはいると、チャイはずっと、信じてきた。
 愛する妻が死んでしまって、残されたたったひとつの宝物まで病になったとしても、信じていたいと思ったのだ。
うすうすどこかで怖くなって。だんだん己でも信じられなくなって。それでも。
 ――そのマスクを見たときに、すべて、分かった。
 己の娘が好む、正義のヒーローがつける黒いマスクは、少女が憧れる形そのままだった。
言葉もいらない。
サー。
名前がかかれたマスクは、己にすべてを、伝えたのだ。
 パパは、わたしのヒーローだと、少女は言う。
 ならば、己のなした選択によりすべてを喪ったとしても、サーの命すら、もしかしたら己が捨ててしまったのかもしれなくても、それだけは成し遂げなければならないのだ。それだけが、それだけが、それだけが……
 戦う力なんて嘘みたいにわいてくる。さんざん殴られた身体が痛くもかゆくもない。たとえ誰が来たって、何があっても、どんな敵が立ちはだかろうと。
 ヒーローになれると。
 暗闇の中、手をつかまれる。その男が、己がずっと探していたドナーである香港人だなんて、まるで夢のような話を、いともたやすく告げるのだから。
〝チャン・チーキット〟という名前を、一体どれだけ求めたことだろう。
 神さまはいる。この奇跡が、それを余すことなく告げている!
 最早簡単な話じゃないか。己らが、ここにいる全員を倒せば、もう胸を張って、サーのもとに帰れるのだ。腰につけた黒いマスクが、嘘みたいに力をくれる。不思議なくらい圧倒的に――それは奇跡だった。
 地面を飛んだ勢いで並んでいる男二人のうち、一人を蹴り、そのまま振り返りながら、もう一人も蹴る。飛び台のように使って着地して、正対した別人の腹に突くように蹴りをいれ、かがんで背後から蹴りかかってきた相手の足を掬うように足を地面に滑らせた。間髪入れずにけりかかってきた男の膝を膝で防ぎ、蹴り飛ばすように己自身が下がった――ままに、上体を、そらす。ひゅ、と鼻先かすめていった別の敵の蹴りを追うこともせず、肘で胸を打つ!
 振り返って立ち上がる男たちをいなし、片付けて、己は帰るのだ。
娘のところに。サーのところに。
「ッ、デァアアアアアアアアア……!」
 地面を蹴って、右、左、の男たちを蹴り、真ん中の男の頭を膝に挟んで、倒れた男と一緒に倒れ、前転をして勢いを受け流した。振り向きざまに立ち上がり、逆方向の壁側に立っている男たちを飛び膝蹴りで倒し、彼らを着地点にして少しはなれた位置にいる男を肘で昏倒させる。
男たちは倒した。残りは一人。残りはたった一人!
 チーキットが戦っている己の上司であった男を――両飛び膝蹴り――ムエタイで〝巣に帰る鳥〟と名付けられた技で倒せる、はず、だった。
 膝を折り、背筋をそらせ、本当に掠めるほどのギリギリさで己の技をよける人間など――見たことがなかった。嘘だろう、と呆然としながらも着地して、両手を地面について側転しながら彼に蹴りかけてもよけられ、飛び蹴りをしても膝をおさえられ、回し蹴りも同様の回転によりよけられ。
 ――まるで、柳だ、と戦慄が、走る。
 こんなにも冷静にあらゆる攻撃を避ける人間を見たことがない。チーキットが加わって、力を合わせたって、彼は傷一つ負っていないのだ。
吹き飛ばされ、立ち上がる。
地面の先、彼は圧倒的な強者として、そこに君臨していた。
 勝てないかもしれない。
 それはあまりに、恐ろしい思考だった。
 この男に勝ちさえすれば、すべてが終わるのだ。拳を構えながら腹の底が冷たくなる。けれどもその恐怖よりも強く、熱い思いが沸いていた。
 勝てないかもしれなくても、諦めることなどあり得ない。
 チーキットが己を見て、己もチーキットを見る。二度、この男と戦った。弱った状態のチーキットに勝利を収めたのは事実だが、それでも、ひどくつよい、と認識していたのだ。その彼が、隣にいる。味方として、共に拳をふるっている。
 その事実だけで、いくらだって強くなれる気がする。
 彼が、す、と目線を落とした。
己の腰につけた、サーの、ヒーローのマスク。
死ねないのはお互い様だった。どちらも欠けるわけにはいかない。サーのために。サーが、これから笑って生きていくために。
 あんな優しい子は見たことがない。もういない、愛するあの人に似たのだ。とても優しい人だった。とても、美しい人だった。
 誰かの為に強くなれること。それが、それだけが、きっと、目の前に立つ、なにより強いかもしれない男にはないものだ。
 触れたマスクにはヒビが入っていて、もしかしたら壊れてしまうかもしれなくて、負けてしまうかもしれなくて、サーを助けられないかも、しれなくて。
 そうはさせないと、息を吐く。
「ヤァアアアアアアッ……!」
 エレベーターの前に立ちはだかり、半身を引いている彼に向かって、駆け出す。己は上、チーキットは、下を!
 くるりと空中でまわっていれた蹴りに、手ごたえを感じた。両腕を交錯させて受けた彼は吹き飛び、チーキットの回し蹴りと、己の肘落としをくらって、のけぞった。
 息を突く間も与えない。今度は下。チーキットは上だ。入った……! 彼が、地面に倒れる。今だ、と倒れている彼に蹴りをいれるが、飛び起きながら頭を蹴られて、わずかに引く。そうとも、そんな簡単な男じゃない。けれど!
 つう、と額に垂れた血をぬぐう眼光。ダメージは、与えられていた。チーキットと己の足を防いでも、先ほどまでとは違う。当たっている。とびかかるように腹に両膝を入れる。
そして、チーキットが渾身の飛び蹴りをし――その細い肢体が壁に叩きつけられた。
地面に立てた爪が、わなわなと震えて、己らを睨みつけながら立ち上がるまなざし。
「イヤァアアアッ!」
吠えるように飛び掛かって、避けようともしないことに気づく。避ける力もないのか、避ける手間すら、惜しいのか。ダメージは蓄積しているはずなのに、返してくる拳は更に、重い。
理性の皮を剝ぎすてた獣が、牙をむいている。
彼の膝に足をのせて、浮いた勢いのまま組み付いて、頭に肘を落とす。
ムエタイでは人体で最も強い箇所を使う。肘と、膝だ。ここで攻撃をすれば、通常の攻撃の何倍も威力が上がる。その肘鉄を食らって、獣が膝をつく。とどめを、と思った瞬間に、彼が袖に隠していた暗器を取り出したことに、気づいて。
両の脇腹を長い針のようなもので刺されて、あゆみが止まった。前かがみになって、はふ、と血が、咥内にあふれる。
――ぐぅう……!」
 たやすく引き抜かれた針が、今度は殺意を持って胸にせまり、彼の腕をつかんだ。細い腕だ。それなのにどうして、と思うほどの力で、びくともしない。逆に針を押し込まれて、一本が胸に埋まってゆく激痛に己の口から悲鳴が上がった。
 これ以上押し込まれては、まずい、と痛みと痛みと痛みの中で、反射的に身体ごと何歩も下がって、ようやく彼の身体を蹴って、離れた。ずぶ、と抜けた針と、全身を支配する痛みに傷口を抑えて呻く。血があふれるのと同時に、力が抜ける。
あ、と思った時には遅く。
 顎に衝撃が走った、と認識した瞬間には白すぎる天井が見えていた。あまりにも見事に蹴り上げられて、頭から地面に落ちた振動が、意識を落とそうとする。
(だ、めだ)
 意識の外で、チーキットがおそらく戦っている音がするのに、身体が動かない。視界が朦朧とする。すべてが終わる。このままでは、何もかもが、どこかで、終わってゆくのだ。そう思うのに、ちらちらと、視界の端で何かが騒ぐ。
 牙をむく。その、獣が。ああ、狼だ。
 夢を見ている。
己は起きているのに、これはきっと夢だ。
(サーを、お願いね)
 うつくしくて優しい声が聞こえた。この声を知っている。知りすぎている。己が愛した人。心底、これ以上ないというほど、好きだった。彼女と結婚できて、子供ができたとき、泣きながらその身体を抱きしめた。君が好きだ。君を愛している。君と己の子供が生まれる奇跡が、何よりも、この世の何よりも尊くて、嬉しいと。神さまにこれまで以上に感謝した。男でも女でもいい。君に似ているといいな。あなたに似ているといいわ。君がいう。そうかな、どちらでも、いいよ。だって、君と俺の子どもだから。まぶしいなぁ。君はずっと、太陽みたいに暖かくて、まぶしい。白い天井で、白い部屋で、真っ白な病室で、君は俺を見た。苦しそうに、けれども笑って、サーをお願いと。
(愛してるわ、チャイ)
 ――どうして、神さまは彼女を。
 狼が牙をむく。ドン、となにかがぶつかる音がする。すべてが終わりに向ってゆく。唸る獣は、鼻に皺を寄せながら柔らかな地面を歩いてゆくのだ。少女に、向かって。
――――サーッ……!」
 飛び起きて、その瞬間脇の痛みに反射でおさえる。痛い、痛い、痛い。サーは。今、狼が。違う。彼女が、お願いね、と。いや、違う。痛さのあまりに目をつむる。ドン、ドン、というその音に目を向けて。
 ああ、まだ何も、終わってなんかいない……
 まだ間に合う。何もかも終わらせるには、早すぎる! 
窓ガラスを突き破って落ちるチーキットを、助けるのだ。そうしないとサーは死んでしまう。狼が歩んでゆく。チーキット。
なあ、なんで、助けに来てくれたんだ。
チーキット。教えてほしいんだ。だから、いかないでくれ。生きてくれ。
その狼の気配がする。
上司であった男の背中を蹴り、腕の鎖をほどくようにチーキットに向かって差し出して。邪悪な男が鎖を取っていいはずがなかった。けれど己の差し出した蜘蛛の糸はチーキットではなく彼が掴み、かわりに舞った彼のネクタイをチーキットがつかむ。
ああ、そうだ。終わっていない。
どこかで何かが終わっても、己らは終わってなどいない。
 いいや、これから始まるのだ。サーの命も、己の人生も、そして、チーキットだって、きっと!
「死んではだめだ、娘を助けてくれ……!」
 ネクタイが締まり、力のなくなった男の指が鎖から外れたと思った時には、身を乗り出してその腕をつかんでいた。力のなくなった身体に、なんとも思わなかったわけじゃない。それでも。
 ――ずいぶん久しく、笑ってなかった気がする。
 力をいれて、二人分の人間を引き上げるという体験は初めてで、ぽたりと汗が顎をつたう。けれど離さない。この腕だけは、きっと己の腕がちぎれても、離さないだろう。
 どうしてと、己は確かに思ったのだ。
その疑問に答えが与えられることだけが人生だったわけじゃない。彼女の死も、サーに与えられる試練も、どうして、と。神はどうして。彼女の命を若くして摘み、次なる輪廻に向かわせただけではなく、まだ幼い娘まで。
だって生きたいと、サーは思っている。見たいものが沢山あって、やりたいことも一杯あって、楽しみにしているサーはまだ次なる生に向かうには早すぎて、己だってもっともっと愛してやりたいから。だから、どうして、と。
 その答えを、今初めて得たような気がするのだ。チーキット。限界を迎えそうな手で、震えながら引き上げて、力のなくなった肢体と一緒にようやく空中から舞い戻った男が、己を見る。
お互いに、何かを呟いた。
――……?」
 ほとんど同時に、被せるように喋ってしまったからだけではない。お互いの言語の壁によって分からない。
己は、どうして助けに来てくれたんだ、と言ったのだ。
きっと来なくたって、彼にとって問題はなかった。どうして、危険を犯して助けに来たのだろう。死ぬかもしれないのに。生きては帰れないかもしれないのに。あの地獄の刑務所を、ようやく脱出できたのに。
 でも、それもいいかと思ったのだ。
もうそんなことは、些細なことなのかもしれない。
代わりに、翻訳アプリに向かって呟いた。画面が割れたそのスマートフォンが、己と彼を繋げる。
普通に、なんの問題もなく平穏に生きていたら一生関わることがなかったかもしれない己らを繋いだ、か細い一本の糸。
何かを諦めていたら、とうにその糸は切れていたに違いなく。
 ……きちんと、知りたくなかったのだ。そのビジネスの正体に気づき始め、己の働いている刑務所で何が行われていたのかを分かってくれば、彼が囚人と違う理由でここにいることは明白だった。見殺しにしている。サーに希望を説いた口で、己がしていることは酷く卑劣で、汚い。罪滅ぼしにもならなくても、だから、不当に水も食事もろくに与えられていない彼に水と薬をあげたりして、結果として考えなしの己のせいで彼はもっと酷い目にあった。恨まれたっていいはずだし、そうあって然るべきだった。己を見上げる彼の瞳にどれだけの罪悪感が生まれたことか。
 だから、彼を助けに来た男が、キット、とすがるように連呼していた時、そんな名前だったのかと、ぼんやり思った。
……名前を教えてくれないか』
 翻訳アプリが聞きなれない音声を発し、彼は己の目を見た。その名前を、己はドナー書類を見て、知っている。勝手に、一方的に知っている。一方的に焦がれ、望んだその名を。
 彼の口から、ききたかった。
黒い瞳に、刑務所にいた時よりもずっと強い意志の光がのぞく。まるで別人のようだ、と感じたのだ。だって、刑務所にいた時、彼はもっと。
……そして、今は確かに、一人の男の目をしていた。
「チーキット。……チャン・チーキット」
 ああ、知っている。
 百年前から知っているみたいだから、きっと、ずっと、知りたかった。
……チャイだ、有難う、チーキット」
 ずきずきと刺された箇所が痛み、身体中のあらゆる箇所が怪我に見舞われていて。
それでも、互いに生きている。
『帰ろう』
 チーキットも、己と同じように、あるいはそれ以上にボロボロのていで、けれど笑った。
ああ、終わったのだ。無我夢中で飛び出して、長い時間――ずいぶんと長い間、サーと会っていない気がする。サー。はやく帰って、抱きしめたい。あの子が己と同じようにドナーの携帯電話番号を調べたと言った時、言えなかったのだ。その電話は、別の人間が拾っていて、ドナーの人とは連絡がつかないんだと。己を安心させるように「わたしは大丈夫だよ」と言った娘に、どうしてそれは無駄だなんて言えただろう。
 でも、無駄じゃなかった。
 サーが諦めなかったから、チーキットはサーと出会えたのだろう。
 チーキットは別室で倒れていた男と、その男の前で泣いているもう一人に何かを言って、すぐに止められたエレベーターを復旧した。あれはいいのか? と目だけで問うと、こくりと頷かれる。遠くでサイレンの音がした。おそらく、警察が来るのだろう。エレベーターに一緒に乗り込み、最上階から一階までの間に機械的な音声がチーキットの言葉を己に伝える。
『サーが俺の携帯を拾った奴と、諦めずに連絡を取ってたんだ。だから俺の写真を送ってもらうことが出来た』
……ああ……
『あの子はいい子だ』
 そう言われるのは嬉しかった。コンがサーのことを己の娘と同じように愛してくれているのだって、あの子だからだ。
あんなにやさしい子は他にいない。病院でも人気者で、サーの周りには人が絶えない。
 本当に、自分には勿体ないくらいの娘だ。
 ぽん、という音がして、エレベーターのドアが開く。一瞬扉の先に敵が待っていやしないかと身構えたが、問題はなかった。連れてこられた際は見ている暇がなかったが、ここは、医療センターだ。こんな最先端の医療が行われている場所、己には一生縁がないと思っていたし、今だってそれは正しいのだろう。
 玄関付近にとまったパトカーから降りてきた警官と少しだけ話したチーキットはすぐさま、乗ってきたであろうバイクまで歩き出した。反して、警官たちはばたばたとビルに入っていく。まるで今まで己があの場所にいたのが、夢のようで。
バイクのキーをまわしたチーキットがいるから、夢ではないと信じられる。
『車じゃなくて悪い、後ろに乗ってくれるか?』
 この後部座席、乗れるのか? と思いながら、後ろに跨って、チーキットがエンジンをまわす。
いや、待て。
 手は、どこに置けばいいのだろう。
 ぶぅん、とタイヤがまわって、慌てふためく。何だか、普通、掴む場所がなかったか? バイクの後部座席に乗ったことがなく、うろ覚えだから、わざわざ前の人を掴まなくてもあったはず――と思ったのだが、見つけられないし落ちてはたまらないし、と反射的に前のチーキットの腰のあたりを掴んでしまった。
 流石にそんな間抜けな己に気がづいたのだろう。運転しながら、チーキットが片手を外して、何とか服を掴んでいるだけの己の手を、腹の方まで誘導してくれる。もっときちんと掴んでいいと言う意味か。正直不安定だったから助かった。ぎゅう、と手をまわして、風が髪をあおるのを目を細めて堪能する。
 時刻は真夜中で、人通りは少ない。
 目の前のぬくもりが、ただ、心地よかった。
 ――ふと、己の上司であった男の名前を思い出した。忘れていたわけではないけれど、覚えていたくもなかった名前。
 高晋。
 もう、忘れることはないだろうとも、確かに思った。







 ――一、二度。瞬きをした。それから、暖かいと思う。ぼんやりした視界にうつるのは白い部屋で、ナースが歩いていることから、ここが病院であることを思い出す。
…………
 ざわざわと人々の声なのが大きくなり始めたけれど、きっとこれは、己が今まで気が付いていなかっただけなのだろう。みし、と身体が痛んだ。自然でない体制で寝ていたから、だけではない。死闘の痕が残っているのだ。
 無理な体制。
 明らかに、ベッドではない。というか、多分今己が座っているのはソファだ。病院の待合室のソファで寝ているだなんて、ちょっと頑張ればベッドで眠れただろうに。そして暖かくて固いものに頭を乗っけている。すう、すう、とそれが上下するから、そろそろ、その正体に気が付き始めている。
…………………
 ちら、と横を見た。ソファの背もたれに身体を預けた、チーキットが、己の頭を肩で支えている。というより、互いに頭を預けあって、支えあっているような感じになっている。ぱち、ともう一度瞬きをしてせわしなく動き回るナースを眺めていたら、目があった。
 ぼんやりとしていた自覚はあるけれど、実にほほえましそうな顔で笑われるのは心外である。
 ……起きたら、チーキットも起きるだろうか。
たぶん、確実に起きるだろう。申し訳ない気持ちもあるが、これ以上こんなに人目につくところでくっつきあって寝ているのも、実に体裁が悪い。
 そうだ、昨日――いや、今朝か。病院から消えてしまったサーを夜通し探して、ようやく見つけ、病院に連れ帰ってきて、命に別状はないと診断されてサーが眠るまで二人で付き添った。
「ごめんなさい、心配かけて」
「いいよ、おやすみ、サー」
 頭を撫でれば、サーはすぐに眠りにおちて、チーキットも心底安堵したように息を吐いた。それでようやく、長い夜が終わりを告げる。朝陽に照らされ、暗雲から脱するまで、どれだけ長い、道のりだっただろう。
ふらふらと二人でソファに座った瞬間、糸が切れたように眠ってしまったのだったか。
 誰かに攫われたのでは、だとか、何かに巻き込まれて、だとか、色々な想像が頭をよぎって、サーを見つけ出すまで――ひどく、泣きそうだった。
あの子が死んでしまったら。あの子までいなくなってしまったら。ようやく見つけた希望の灯に、なんの意味もなくなってしまったら――己は、どうやって生きていけば、いいのだろうと。
 それでも、共にチーキットがいたから、その震えも、恐怖も、絶望も、なんとか倒れずに耐えられたのだ。
 こんなに近くに誰かがいるのを、ずいぶん久しぶりに見た気がする。
 目を瞑り安穏とした寝息を立てているチーキットの顔をまじまじと見てから、申し訳ないけれど頭をそっと起こした。かくん、と支えを失ったチーキットの頭が揺れ、瞼がぴくんと動く。
(起きる)
 しぱしぱと眠そうに目を開けたチーキットが、状況を理解できなさそうにしばしぼんやりしてたから、「おはよう」と声をかけた。
……××ッ……!?」
(うん、何を言っているか分からない)
 まあ、なんとなく驚いていることは分かるから良いか。
 身体は痛いし、座ったまま寝ていたから全然疲れも取れた気がしないけれど――けれど、こんなにも心休まる穏やかな目覚めは、一体、どれくらいぶりだろう?
 たしか、サーが白血病だと診断されて以来、一度もなかったように思う。

『三年間――俺はサーを、助けてあげられないんだ』

 全力でバンコクの街を駆けて、サーを探しながら、途方に暮れたように息を荒げ、僅かに立ち止まった己に、チーキットはそう告げた。
 今言わないのは卑怯だ、とでも、思ったのだろうか。
 夜中でも時折車は走っており、生活している人がいる。完全に街が眠ることはないのだろう。排気音を鳴らしながら通り過ぎて行った車に視線をとられてから、は、と息を吐いた。
 何もかも、都合よくいくわけじゃない。分かっていたことだ。
試練は常にあって、多分、終わることはないのだ。生きている限りこの道は続く。どんな人間にも、等しく苦難は訪れる。それがただ、他人より目に見えやすい形であらわれているだけで。
『薬物をやっていた奴は、すぐに骨髄を提供できない』
 そう言えば、チーキットが刑務所に収監された表向きの理由も、そんなものだったな、とふと記憶が蘇る。
 チーキットは、言い訳をしなかった。
……サーは?」
 翻訳機を通さずとも、己の聞きたいことは伝わっただろう。
どこかに行ってしまった、己の世界一大切な宝物は。
『じゃあ、待ってる、と』
 ――この世の誰よりも強い子だと、ほんの一瞬、瞬いた。
チーキットの瞳の色の理由が、ひどく分かったような気がする。己は彼のことなど、なんにも知らないのに。だって本当のところ、チーキットの深い事情だって分からない。けれど、分かっていることがひとつだけ。
チーキットは、サーを救える唯一の人間だ。
 ……あの子は、怖かったんだろう。
 当たり前だ。怖くないわけがない。大の大人である己が、サーが死んでしまうかもしれないと考えるだけで、怖くて、怖くて、たまらなかった。震えて、泣きそうな夜が幾度もあった。明日お見舞いに行ったら、サーはもう死んでいるかもしれないという悪魔の囁きはいつだってそこにあって、それは悪魔ではなく現実というものだった。医者は手を尽くしていると言っていたが、それはドナーが現れなければ状況は絶望的だとも告げていた。
きっと大丈夫。きっと神さまはサーを見捨てない。
楽観的であるはずの己ですら、どうしようもなく怖いのだ。何十年も生きてきて、それでも恐怖に抗うすべを見つけるのは、驚くほどたやすく無い。
 ようやく見つかったドナーに己が歓喜の声を上げるのと、現実はそれほど甘くないと突きつけられるのもほぼ同時だった。ああ、人生はそれの繰り返しなのだ。いいことばかりじゃない。すべてが都合よくすすむわけじゃない。きっと何とかなる。きっと大丈夫だ、という言葉だけで、誰もが強くなれるわけではない。
 待ってる、とあの子はどんな気持ちで言ったのだろうか。
 沢山やりたいことがあって、これから色んなものを見て、さまざまなことを経験したいと未来の己に向けて手紙を書いたあの子は、いつだって己の前で明るく振舞っているけれど。
……とても怖いわ、と表情をなくし呟いていた、あの姿だって――あの子の真実なのだ。
 あの子は、あの子なりに闘うしかないのだ。あの子だけの闘いに、われわれが口を挟むことはできない。
 でも、一緒にいて、手を繋いで応援することはできる。
「はやくサーを見つけよう」
 見つけてあげたいのだ。そして抱きしめたい。この手も、この目も、ずいぶん汚くなってしまった。もう、サーを抱きしめる資格は、己にはないのかもしれないと、確信のように思えた時間は永遠のようでならない。
高晋の連れてきた少女なら、きっと三年も待つ必要はなかっただろう。サーに、こんな怖い思いをさせることもなかったに違いない。
 けれど、あの子は待っていると言ってくれた。
 そんなあの子に顔向けできないような父親では居たくないと――それが、己の源泉だった。
パパは愚かかなぁ。サーを助ける手段がすぐそこにあるのに、とれなかったんだ。
コンは一言も己を責めなかった。どの道を選んでも、俺はお前を責めたりなんてしない、とコンは言った。言ってくれた。どうしようもないほど、有難くて。
 でも、パパは馬鹿だから、後悔なんてしていないんだ。したくないと言った方がいいのかもしれない。サー。希望はあると、おまえに言ったね。あの言葉が己にも言い聞かせたものだって、よく分かるだろうし、きっと気づいていただろう。
後悔はしたくないのだ。どんな結末になるにしろ、己が定めた運命にだけは、己が歩んだ道だけは、こんな筈じゃなかったと振り返って泣きたくなんてない。
チーキットを三年間待つと、あの子は誓った。その道がどれだけ怖くておそろしくてならないか、想像するだけで涙が出そうになる。
大事なのは過去ではなく、これから歩む未来の話だ。チーキットが薬物を使用していてサーのドナーになれないという事実と過去はもういいのだ。
 三年。
短くなんてない。むしろ途方もないほど長い時間だろう。
けれど、絶望の時間などでは、ない。
「サー……!」
「サー!」
 誰かにサーを見かけていないか尋ねようにも、こんな夜中――そろそろ早朝に差し掛かろうという時間では誰もいない。焦りだけが募ってゆく。
(サーは何をしに、病院を飛び出したのだろう)
……待ってくれ、一度、病院に戻る」
 闇雲に探しても見つけられない。もしかしたら意識がないのかもしれない。姿をくらました理由は何であれサーは白血病で、免疫がないに等しいから怪我でもしたら命にかかわるのだ。
 全力で病院に戻って、サーのベッドの周辺を探す。あれほどボロボロなのに、チーキットの知り合いの人も探しに行ってくれている。コンだってそうだ。看護師の人たちも夜勤中だと言うのに最低限の人数を病院に残して、外へ捜索しに行ってくれている。その捜索に、お金なんて出ない。だって己が出せないからだ。でも、みんなが行動してくれる。サーがそれだけ、みんなに愛されているから。
 サーの好きなもの。いつか行きたい場所の写真。ぬいぐるみ。誕生日プレゼントのウクレレ。お見舞いの品。お気に入りのリュック。
……リュックと――苗が」
 ……希望を捨てちゃいけないよ。
そう、サーに証明する為に差し出した小さな苗が、なくなっていた。
 あの子は、その苗をどうしたいと思ったのだろう。
 植物は、土の中にいるときは真っ暗闇で、自分がどうなるか分からなくて、恐怖でいっぱいで、それでもいつか太陽のもとに顔を出す。それだって奇跡だ。それこそ奇跡だ。そんな奇跡に囲まれてわれわれは生きていて、おおよそはそれらの奇跡に気づかないまま生きてゆくのだろう。
 サーの病室のベッド。そのベッドから見える、窓越しの世界に、大きな樹が見えた。
……公園とか、樹のある場所を探すんだ」
 翻訳アプリを使ってチーキットに伝える。これが正しいのかは分からない。でも、今のサーの世界はこの病室の、ベッドの上なのだ。ほとんどの時間、おおよそ、サーはこのベッドの上で生きている。
そこから見える世界は、どんなものだろうか。
 どれだけ絶望しても、希望はきっとあって、だから世界はうつくしいと――己は信じている。
 それが信じられないくらいの暗雲の中にあっても、そうでありたいから、そうであってほしいから、そうしたいと願う。その為に一歩踏み出して。その為に胸を張って。その為に前へ進む。
 サーの闘いへの決意が、ここにある。まだ小さな苗を持ち、どこかへ消えた己の娘。木々のあるところだ。確信めいてそう思う。あの苗が小さくこれから成長していくのと同じように、サーだって生きてゆく。生き抜いていかなければならない。三年間、奇跡を起こし続けなければならない。
 だったら闘うしかないだろう。
 サー。
 チーキットを連れ立って病院から駆け出す。必ず見つけるから。己の星。己のすべて。
今に世界は、晴れるだろうと信じて。


――そうして、公園で眠るサーを抱きしめて、その暖かさに、安堵した。責める言葉など己には持ちえない。心配した。多くの人が同じように。けれども、必要なことだったのだ、きっと。己らが拳で最後の戦いに挑んだように。己らに、ひけない思いがあったように!
陽光が肌に触れ、太陽の匂いに包まれる。
バンコクは、久々に晴れだ。
……チーキット」
 そうして今、己の横で目覚め、動揺している命の恩人にふと笑いかけ、いい天気だと目を細める。サーも無事で、己らも無事で、一人も命を落とすことなく長い長い夜を抜けた。多くの看護師に二人で頭を預けあって寝ている姿を見られてしまったから、後々揶揄われるかもしれないが、まあいい。
――サーを抱きしめて、撫でていた時に、少し離れた場所で己らを優しく見守っていたチーキットの姿。
あの姿が何より好きだから、細かいことはどうだっていいだろう。
お互いまだボロボロで。身体中のあらゆる箇所に痣が残り、包帯を巻いているような状況だし、もう朝でもないけれど。
「一緒に朝ご飯でも、食べないか?」
 バンコクは、久々に晴れだ。







 神さまってやつを信じたことはなく、呪うことなら幾度もあった。
 何しろ、神ってやつを信じるのも勝手だし、呪うのも勝手な所業だ。すべての人に起こりうるあらゆる事を、神が宣託し采配した結果だと受け入れるには、この世はあまりに残酷が過ぎた。あるいは、その運命をもたらされた当事者でなければそうは思わなかったのかもしれないが――生憎、一切の不運なくして絶望を知らない人間は、きっとこの世にいないだろう。
 それら多くの人々が一体どうして神を信じていられるのかむしろ不思議なのだ。辛くないのか? 苦しくは?
だって、まだ幼い身の己の妹が死んだことも運命だというのなら、そんなものは糞以下じゃないか。
己だけでない。世界中に溢れる、理不尽に死ぬ人々を、神はどういう意図でつくるのか。
 その答えは、ある種暇つぶしに近いのではないかと、己は思うのだ。
 この世に溢れる人間が作り出した娯楽には、映画や小説、漫画といった多くのものがあって、それらは作り手がいる。
そして、読み手がいる。
 彼らは作品の中で理不尽に死ぬ人々に同情し、その生きざまに感動し、心を揺さぶられるだろう。そうして心を潤して、また翌日からも頑張って生きていく。
 それが答えじゃないかと、そんな風に思っている。
 神さまってやつはきっと暇を持て余していて、二時間の娯楽映画、感動映画、アクション映画とか、そういうものを見るために、人々を苦難に貶めているのだ。

 ――だから、叔父が神さまはいると己を励まし続けることを、ずいぶん疎ましく思った日々は多くある。

 叔父も人間だから、苦しいことも失ったものも生きるだけ多くあって、絶望なんてなんべんだってした筈だろう。そうでないとは思えない。だってそうだ。何も失っていない人間はこの世にいない。
妄信しているというのなら分かったのだ。神がいるから、いつか幸せになれるだとか、そういう願望ならよく見て聞いた。神さまってやつを信じていない己のほうがマイノリティで、神がいることを前提として世界はできている。常識のように刷り込まれた、その基礎としての宗教というよりも。
神さまはいるよ、と、妹を失って泣き続ける己を慰める叔父は、心底、ゆるぎない何かを持って、神を信じていた。
一歩一歩、進んでいくんだ。あきらめるなと、彼は言う。
俺なんかが、どうして、俺が、俺さえいなければと、何度口走ったか分からない己に根気よく、大丈夫だと。お前なんかが、じゃない。お前は何も悪くない。誰も悪くない。神さまだって。だから、チーキット。お前は前を向いて、歩いていけ。怖くなっても、何があっても、俺はお前を見捨てない。
――何度でも言うぞ。お前は悪くないし、誰も悪くない。そして俺はお前を、お前自身が見捨てたって、けして見捨てない。お前がお前を間違っていると決めたって、神さまはお前の運命を間違って決めたりなんてしない。お前が歩みを止めたって、運命は流れていく。そして俺はお前のために、どこまでだって行くからな。
――確固とした声と、眼差し。ゆるぎない、広い背中。
それを人は、〝宗教〟とは呼ばず。
たぶん、己にはない、〝信念〟と呼ぶのだと、チーキットは思ったのだ。


時間というのは、苦しい時は長く感じて、けれど過ぎ去ってしまえば幸福だろうがそうでなかろうがあっという間でしかない。長い長い人生の、僅かな切れ端に過ぎないのだ。
例えばの話、チャン・チーキットは七年間臓器売買組織に潜入し、その時間はあまりに長かったが、終わってみれば記憶に残っているものは殆どない。七年だ。幼少期の七年と言えば人が変わるほどの時間で、それからの七年だって同じように己を形成する大事な期間で、それなのに大人になってからの苦しいばかりの七年は、苦しかったという記憶だけを残して、てのひらから残骸もこぼさずに消えている。
その時苦しかった時間が嘘だったのかと言えば、そんなわけはない。苦しくて苦しくてたまらなくて、死んでしまいたい夜もあった。けれども過ぎ去ってしまえば、それだけの苦労が報われてもいた。
 例えばの話、チャン・クォッワーがチーキットを捜す三日間、洪に脅されて従うふりをする決断の時間。それは長かったし、けれど彼にとってはそれほど体感するほどのものでもなかったとも言う。
だって彼は選んだからだ。苦しくても間違っているかもしれなくても、やれることを決断して行った。
その後、タイに向かい、刑務所に潜入するも失敗し、縛り上げて刺された瞬間の死んでしまいそうな痛さも、きっと普通だったら耐えきれなかった。しかして、彼には覚悟があったのだ。逆に言うと、覚悟しかなかったけれど、それだけは。諦めることだけはなかった。
だから、あの痛みも、己の手を潰す所業も、気が遠くなるほどの激痛すら、終わらないかもしれないとは思わなかった。手を潰せば手錠をすり抜けられて、そうすれば鍵を手に入れて、チーキットと一緒に抜け出すことができる。
背中が血まみれで、一歩歩くたびに気絶しそうになっても、諦めだけは知らなかった。長い、あまりに長い時間であったとチーキットが思っても、彼にとってはそうではない。
 例えではない話、サーという少女にとって、余命を宣告された半年後までの時間は、長かっただろうし、けれどもきっと、短くもあっただろう。だって半年間だ。生きると誓い、希望を失わずに笑う時間。
 もしもわたしが病気に負けてしまっても、わたしが不幸だったなんて、間に合わなかったなんて、誰もが思わなくてもいいくらいに、わたしは幸せに生きるのだと少女は決めていたのだから。
 眠るたびに怖くても、それでもわたしは後悔だけはしたくない。目覚めることを、奇跡だと思う。でもそれはきっと、わたしだけじゃあ、ないのだ。
 この世界で突然死んでしまう人はたくさんいる。ママだってその一人で、まわりは「まだ若かったのに」という。この世界では、わたしのように小さい子ほど、死んでしまったら可哀想、なのだ。
 生きたいのは誰だって変わらない。でも、死にたいという人がこの世にもいると、わたしはこの前初めて知った。自分から死んじゃいたくてたまらなくて、死んでしまう人がいるらしい。しかも、ちょっとやそっとじゃなくて、大勢。そういう人は、可哀想ではないのかな? とパパに聞いた。
余命半年だというのに、三年間はドナーの骨髄を移植できないことが決まっている娘に問われて、父は「本当は誰もが生きたいんだよ」と、いつものように、いつだってそうであるように、わたしの欲しい答えをくれる。
「しあわせに生きたいのに、自分が思い描いていたものと違うから、そのことに耐えられなくて、自ら命を絶ってしまう人がいるんだ。だから、死にたくて死んでるんじゃないよ。みんなが、サーみたいに戦っているんだ」
 ――誰もがみんな、それぞれの方法でたたかっている。
 負けてしまうこともあるだろう。勝てないことだって少なくない。大人になると、負けることの方が多いよ、と、入院していた時、チャン叔父さんは教えてくれた。
それでも、負けてばかりの人生で、勝者を決めることが出来るのは――己だけだ。
 だから嬢ちゃんは、勝つと決めたんだろう?
 父の為に、血を吐くようにすまないと絞り出したチーキットの為に、そして何よりも己のために。
 それでいいのだと、チャン叔父さんは言った。
「生きたいという執念だけで、医者に宣告された余命を何十年も伸ばし続けた奴を最近見たからな。嬢ちゃんだって勝てるさ。俺は信じてるし、チーキットも信じてる。誰よりも、嬢ちゃんが一番、信じてやるといい」
 自分のことを一番に自分が信じること。
 彼が、チーキットを助けるという執念と、その為になんだってするし、なんだって出来ると信じたから、奇跡が起きたのだと、わたしは知らなかった。でも、チャン叔父さんの言葉には、翻訳アプリを介しても伝わってくるほんとうの重みがあって、わたしの心にきれいに収まってゆく。
 たかが、半年だよ。
 わたしはわたしにそう言い聞かせて、八歳になるまで十六回訪れた半年間を、最期の半年だと覚悟もしながら、それでも生きたいと、たたかうことを決めたのだ。その為に病院を抜け出して、みんなを心配させてまで。

 ――それで結局、この半年が長かったのか、短かったのかは、わたしにもよく分からない。

 警察のお仕事をテイネンタイショクでやめたチャン叔父さんは、ちょっと前に遊びに来てくれていて、コン叔父さんのところで仲良くしているらしい。気が合うみたいだよ、あの二人、とパパが笑っていた。
 今日は香港からチーキットが来る日で、会うのは久しぶりだった。本当ならずっと傍にいたい、と零したチーキットに、パパは「サーのことを想ってくれているだけでいい。香港に、人に誇れる仕事があるんだろう? 警察だなんて、すごいじゃないか」と慰めていた。
 飛行機で来るらしいから、迎えに行ってあげよう、と、コン叔父さんとチャン叔父さん、パパとわたしで車に乗って、お出かけする。体調は悪くない。お天気は良くて、ドライブしながら皆でお歌を合唱したりして、すごく楽しい! 本当ならサーはお留守番なんだけど、体調もいいしずっと安定しているし、まあ数時間なら大丈夫だろうお医者さんも納得してくれたから、胸を張って堂々と、チーキットさんを迎えに行くのだ!
「空港ってすごいねパパ!」
「うん、凄い」
「すごく大きいんだね!」
「物凄く……大きいんだなぁ。実はパパも最近国際空港なんて全然来ないから、吃驚してるぞ」
「チーキットさんと、ちゃんと会えるかなぁ?」
「香港から来た飛行機さんがどのゲートに着くか、ちゃんと掲示板に出てるから大丈夫だよ」
 飛行機にいつか乗ってみたいなあ、と思いながら、チーキットさんが来るはずのゲートに向かっていると、丁度向こうの方から沢山人がやってきて、「あ、もう着いてるな」とコン叔父さんが呟いた。
「あいつは手荷物だけだろうから、すぐ来るしな」
 チャン叔父さんの言う通りで、道の向こうから、ジャケットとシャツとジーパンといういつもの格好のチーキットさんがやってきて、わたしらを見つけると笑ってくれた。
「チーキットさん!」
 駆け寄ると抱き上げて「サー!」と呼んでくれるところなんて、まるでもう一人のパパみたいである。
「××××――?」
 ううん、わたしを抱き上げながら言ってくれるから翻訳アプリも取り出せなくて、何を言ってるか全く分からないけど、まあいいや。
 とん、と地面に降ろされて、チャン叔父さんと話しているのを見ながら、ちょっとお腹が空いたなあと思っていたら、コン叔父さんが「ごはんでも食べよう」と言ってくれた。お店に入ってごはんが出てくるまでの間にトイレに行きたくなってしまったから、探したら、お店の中にはないらしい。
「サー、一人じゃ危ないぞ」
 パパがついて来ようとしたけど、トイレくらいわたしも迷わずに行けるのだ。だって標識が分かりやすく出ているし。
「いいの、パパ、レディのたしなみについてこないでよ~!」
 恥ずかしいからそのままで! とお願いして歩いて行って、ちょっと遠いところにあるトレイに入る。すっきりした、と出たら、チーキットさんが立っていた。
「あれ? チーキットさんもトイレ?」
 こくりと頷いてくれたから、なるほど、じゃあ一緒に戻ろっか! と手を繋いで歩き出す。一人でトイレから帰らないでわたしを待っているなんて、可愛いところもありますね。
 けれど、繋いだ手が動かなくて、不思議に思って顔を上げた。
さっきまで穏やかな雰囲気をまとっていたチーキットさんが、険しい顔をして、動かない。
「? チー……
 首を傾げた瞬間。
 ――耳につんざく、破裂音のようなものが聞こえて、驚いてしゃがみこんだ。







 タイでは、他者と同じ名前を持つことは好まれない。
 名前というのは神聖で、己の運勢や人生を決めるのに大事なものだと認識している。それはけして大事にしろと言う意味ではない。自分の運勢が悪いなと思ったら、改名する者は多くいるし、珍しい話でもなく。己も、己の名前は憶えているが、他人の名前はなかなか覚えられるものではない。タイ人同士でさえそうなのだから、外国人には非常に難儀なことだろう。
 それで、タイ人は名前ではなくあざなを用いて互いを呼び合う。簡素なものでいいのだ。特に意味もなくていい。己に至っては、頭文字を一文字とって、O――オーと呼ばれている。家族から友人、上司から部下まで、オーと呼ぶ。
目の前の香港人は、そういう感覚はよく分からないらしい。手帳にメモしたチャン・クォッワー、と言う名前の横に、元警官と付け足した。言語に長けていて良かった。警官といえど、己のように役付きでなければタイ語以外話せない者も多い。
 オーは、銃弾によりところどころ削られたヴィシヌ神話をモチーフにしたモニュメントを指でなぞり、ふむ、と呟いた。事情聴取は終わって、話は聞いた。あちらで困惑した顔をしている男はチャイとコン。刑務所で働いている。チャンは元刑事の香港人。実際のところ、彼らは銃声を聞き音の方に向かったが、既に少女と男の姿はなく、何も見ていないという事実が正しかった。
 スワンナプーム国際空港の、出国側にしかないそのモニュメントは、当初少女と男がいたところからは大分離れている。男と少女はどこに逃げたのやら。いや、寧ろ、何故逃げたのか。落ちている拳銃を鑑識に渡す。
「オーさんとやら、あいつも警官だ」
「ふむ、香港の?」
 それはまた厄介な話である。香港警察がしゃしゃり出てくる可能性もあるというわけだ。
防犯カメラをみれます、と部下が報告してきたので向かおうとすると、チャンが俺にも見せてくれと頼んできた。
「あなたも現在は、ただの一般人の筈です」
「分かるがね、俺はあいつの叔父だ。あいつが何に巻き込まれたのか把握する必要がある。それに、警官だったのはつい最近で、役に立つ自信もある」
……チャン、元刑事」
 実際、あなたは有名人です、と言いかけて、言葉を飲み込む。
 オーにとって、あちらにいるチャイもコンも、ただの看守であったが、知った顔である。なぜかと言えば簡単なことで、彼らは先日あった、臓器売買組織の摘発者なのだ。その殆どの手柄は香港警察が持って行ったとして、タイの警察も携わらないわけにはいかない。何しろ、臓器売買の商品保管に使われていたのは、我が国の刑務所であったのだから。刑務所という公共的な場所が犯罪に用いられていたことは、侮辱的ですらあった。
 ただの一看守と、香港の刑事が国際的な臓器売買組織を壊滅させたのも、なんの冗談かと思うほど、すさまじい快挙であったが。
……分かりました、見せるだけですよ」
「感謝する」
「あなた方は駄目です」
 ついてこようとするチャイとコンに釘を刺す。何かを言いたげにぐっとこちらを見てくるが、流石にそこまでは許可できない。娘の行方が知れないのは不安だろう。しかも、白血病患者だ。オーとて見つけられるならばとうに見つけている。
いつ何時、医者が必要になるか分からない。
 警備室につき、監視カメラの録画映像を流すよう頼む。
 ――映像の質はそれほど良くない。最初にうつるのは御手洗の近くで、男が歩いてくる。きょろきょろとあたりを見渡してから、立ち止まり誰かを待っているようだった。
「嬢ちゃんが一人でトイレに行くと言ったもんでね。あいつがついて行ったんだ」
 少しの時間の後、少女が御手洗から出てきて、男のもとに駆け寄った。手を繋いで歩き出す二人――だが、男の足は止まる。少女も立ち止まって、それから数拍。男が少女を抱えて、突然走り出した。監視カメラの死角に入る。瞬間、ほかの客がこぞって走り出したことから、ここで銃声が響いたのだろう。次のカメラにうつった男は少女を抱えて移動し――手に何かを持ったまま、途中で通行人を蹴り倒している。おそらく、拳銃。その拳銃を持って、少女を抱え、その上通行人を蹴り倒すとは……凄まじい身体能力だ。ただの警察官ではない。奴は明らかに、この身体能力をかわれ、臓器売買組織に潜入したのだろう。
 オーは潜入捜査など、したこともなければ愚かな行為だと思っている。そんなもの、捜査ではない。うまくいけば確かに功績はあげられるが――落ちぶれた犯罪者を増やしてしまう可能性だって否めない。香港とタイは、違う。潜入捜査はメジャーではない。新人の捜査官がやりたがるような、そんな捜査ではないのだ。潜入捜査など、と。そう思っていた。
しかして、この男に関しては話は別だと認識する。
 チャン・チーキット。
「俺の――自慢の甥だ」
 まるで心を読んだかのように。誰もが彼の動きに見ほれるのが、当然であると言うかのように。
 チャン・クォッワーは、液晶の向こう、龍がごとき男を見て、言葉を紡ぐ。
「潜入捜査官ってのは、簡単にできるもんじゃない。あいつは自分が潜入捜査官にあてがわれた理由を、若く、警官らしくないから、だと思っていたようだが、違う。少なくとも俺は、そんな理由だけで潜入捜査をやらせた訳じゃないんだ。己を殺し、機転をきかせ、摘発する――だけでなく、あいつは」
「香港警察の……至宝ですね」
 意識せず、続きをもらい受けた。あの強さが正義と法の下に用いられれば、いかなる組織とて敵ではないだろう。それに反面――もしものことを考えるとぞっとした。
「彼は――
 オーの言葉を遮るように、ヴヴヴ、とバイブ音がチャンのコートから響く。
「! チーキット……!?」
「!?」
 まさか噂の本人から連絡が、来るとは。先ほどまで散々電話しても一切連絡がつかなかったと言う話であったというのに。
「おい、一体何が――

「サーは預かった」

 ――沈黙。
…………は?」
「要求は一つ――チャイを、三日後、連れてこい。場所は後日また連絡する」
「チーキット、お前、何言って――
「悪い、叔父さん」
 ツー、ツー、と切れた通話に、チャンは言葉を失う。
 一体何があったのか、と思っていた。監視カメラの映像を見ても判別できない、のもまた事実。チーキットは、いつの間に拳銃を持っていたのだ。そして、通行人に危害をくわえている。有り得ない話ではなかった。
少なくとも、オーはこの可能性を考慮していた。
……誘拐、そして、脅迫」
「馬鹿な、チーキットが嬢ちゃんを誘拐する理由なんて、しかも、チャイ、だと?」
――彼は、薬物は使用していましたか?」
 切り込んだオーの言葉に、チャンが眉間にしわを寄せる。その話は、今、関係があるのかと言いたげに。
けれども彼は馬鹿ではない。ずっと刑事だった男だ。重犯罪課ともなれば、多くの事件に携わってきたはずで、チャン・クォッワーとは、香港警察界隈において、かつては無鉄砲で血気盛んな獣のような男だったと聞く。
……捜査のためだ」
「禁断症状は? 幻覚や震えは? 相談を受けたことは?」
「多少はある。が、あいつはヤクにのまれちゃあいない」
 継いだ言葉は、蛇足だと分かっているのだろう。だが、彼は元刑事である前に、チャン・チーキットの叔父である。しかしてオーはチャン・チーキットの何でもない。冷静に判断して。
本人が自白しているのなら、受け入れるしかないのである。
「チャイとの間に確執は?」
「あるわけないだろう」
 それこそ、苦虫を嚙みつぶしたような声だった。
振り向いて、部下に指示する。
「チャン・チーキットを誘拐容疑で追え。要求はタイ人の男。犯人は薬物を使用し、錯乱している危険もある。人質がいるため――射殺も許可する」





……待ってください、刑事さん、サーが、誘拐? チーキットに? そして、私を? ……何を言ってるんですか、そんなはず、」
「事実です」
 少女の安否は確認されていない。先ほどの電話の逆探知は出来たか。香港警察にチーキットの近況を確認しろ。駆け巡る言葉の数々が、遠い言葉のように思えるのは、その理由はたった一つ。
渦中の誘拐犯が、チーキットだからだ。
 あの男が、あの龍が、サーを、誘拐した?
 チャイを差し出させる為に。
「何かの間違いです」
「何の、間違いですか?」
 絞り出すように漏らした言葉に、オーと名乗る刑事が、冷静に返す。
「あなたはチーキットと言葉が通じない。翻訳アプリで会話しているそうですが、それでは意思の疎通も完璧ではないでしょう。チャン・チーキットの、何を知っていますか」
「何、って……
「香港の警察であること。七年間、臓器売買組織に潜入していたこと。半年前、それらを壊滅させたこと。薬物を使用していたこと。少女のドナーであること」
 それくらいなら、私も知っています。と、続けられた言葉に、対する言葉を持ち合わせていなかった。
 ……なぜなら、それくらいしか、己も、知らない。
 閉口した己に、オーも「失礼」と踵を返す。チャイ、と慰めるようにコンが肩を叩いた。知らない。ああ、知らない。チャン・チーキット。名前だって、知らなかったくらいだ。会話だってままならない。コンがチャンを知っているほうが、詳しいのは間違いないくらい。
 けれど、己は知っている。
 チーキットが、どれだけ優しく静かで、けれど揺らめく炎のように熱い男かを。
 何気ない動作が、仕草が、相手のことを思いやる、そんな男だ。サーがトイレに行ったときだって、パパはついてこないで! と言われた己のかわりに「トイレに行きたくなって」とわざとらしい嘘をついて迎えに行ってくれたのだ。
 チャン・チーキットは、優しい男だ。
 刑務所で彼が不当な扱いを受けていることに気が付いても、助け出してやることもできなかった己を責めなかった。水と薬など、後からばれて寧ろひどい目にあったというのに、チーキットは己を売りはしなかった。それなのに今更、あの時の恨みだと言うだろうか。言うかもしれない。少なくとも、普通であれば恨んでもおかしくはない。チャイは一度、チーキットを見捨てたのだ。
…………
 だが、それと関係のないサーが危険な状態なのも、確かなのだ。
 元来の寿命だと医者に宣告された半年の節目に、医者の手の届かないところに置かれては、すぐに対処できない。
何かあってからでは遅い。
サーは今回、チーキットを迎えにいくのだと言ってきかなかった。その結果がこれだ。怪我をしていない、だろうか。すこしでも怪我をしてしまえば、己の娘は血液を止めるすべを持たない。わずかな運動で血管が破れ、意図せず怪我になってしまう。すぐさま医者に駆けこまなければいけないような状態に、サーはなる。
 もしも、何か理由があったとしても。それが本当に、己への恨みだと、しても。
恨まれる筋合いもある。理由だってある。だが。
 サーが死んだら、そんなものはすべて言い訳にすぎない。
「チャイ、コン」
 戻ってきたチャンは、きっと何があってもチーキットの味方だ。彼はそういう男である。そんな彼だからこそ、われわれは今ここにいる。
 そして同様に、己は何があっても、サーの味方で、父親だ。チャンがチーキットの叔父であることが、未来永劫、変わらないように。
「チャイ、チャンはスマホを警察に取られたらしいが、データは元部下に送ったらしい」
……?」
「チーキットの居場所がわかるぞ。三日後じゃ、警察がついてくる。そうしたら奴は射殺だ。その前に――奴を見つけるんだ」






 タイ警察よりも早く見つけ出す、と言い切ったチャンに、流石に香港からは無理じゃないか、と俺は思ったが――どうやら杞憂だったらしい。
二日後。
チーキットが指定した期日より一日早く、その情報はもたらされた。よほど優秀な部下なんだろうし、何よりも退職した今も、そこまで迅速に行動してくれるだけ部下に慕われているチャンの人望と優秀さが知れる。
チャンは過去二週間ほど俺の家に泊まったことがあるが、成程、慕われるのも良く分かった。
「ずっと仕事人間だったから、仕事がないと何をしたらいいか分からなくなるなぁ」
 新聞を読んで「よく考えたらタイ語は分からん」と首をひねるチャンに、何が書いているか教えてやったり、うまい飯屋に連れて行ったりしているうちに、時間はあっという間に過ぎた。俺が仕事に行っている間は何をしているんだ? と尋ねると、適当にぶらぶらしているとのことで、どうやら言葉の壁はチャンにとってはあまり関係ないことらしい。甥を助けるために、単身異国の地に足を踏み込む男は違う。
 己の背中を刺した相手にすら、こうやって信頼を預けて笑う姿。
 その――男が、何より、チーキットを優先させることを知っている。
 あいつは俺の、甥だからな。という言葉だけで、事実だけで、命を張れるほど、何もかも擲ってしまえるほど、チャンにとっては大切なことなのだ。あいつを警察に誘ったのも、あいつを潜入捜査官にしたのも俺で、……姪が死んで、泣きじゃくるチーキットに無責任にも大丈夫だと言い続けたのも、俺なんだと、酒を飲みながら吐露してくれた。
 それはきっと、責任だとか、義務だとか、そういうものをとうに飛び越えているのだろう。チャンがチーキットを助けるのも、第一に考えるのも。俺にとってのチャイが、そうであるように。
チャイの為ならば、実の娘のように思っているサーの為ならば、俺は人だって殺せるような、男なのだ。
 ……間違っていたと、今では思っている。
 どんな理由があろうと、誰かを蹴落としていいはずがない。俺が殺そうとした相手は、甥を助けるためにすべてを捨てて香港からやってきた警察で。臓器売買組織の壊滅の為に、彼らは行動していて。
 間違ったことは、正しい時に起きている。
 神さまはいるよ、と、言ってのけたチャンに、俺が信仰してきたものよりも、ずっと尊いものを、知ったのだ。だってそうだろう。そう思ってきたから、チャンは奇跡を持ってきたのだ。毎日のように拝んできた、その言葉も意味も形も忘れて、己のことだけを考える。そんなものは全て間違っている。奇跡のような確率で、今だって本当は少し信じられない。これこそ、神さまの証左他ならないと思うくらいには。
 一体どうやったら、タイの刑務官と、香港の警官が、数奇な運命を経て出会うことができるのだろう。
互いのことを何も知らず、あまつさえ、何度も拳を交えるほどで。それが、運命を知り、奇跡を知り、立ち上がり、力を合わせるようになったなどと。互いにその奇跡に、どうしようもないほど感謝するなどと。
 信じられないくらいに、あの二人は運命なのだと、言い切れる。
 それでも、俺がそうするように、あんただって、チーキットの為に、なんだってしただろう。
 似たもの同士だからか気が合って、似たもの同士だから、なんとなく、分かった。
「居場所が分かったぞ」
 そういって現れたあんたは、いざとなったらチーキットの味方になることを隠さなかったし、俺も、致命的な何かが起こった時チャイの味方になることは隠さない。
そうだな、正しいことの、味方でいたい。
それと同じくらい、大切な人の味方でありたい。
 チャイがチーキットを見殺しにしても、サーの為に所長の下についたとしても、俺には少しも責められはしなかったのだから。そしてチャイも、俺のことを、責めなかった。何度も止めようとしてくれたのに止まれなかった俺のせいで、ああなったのに。
「理由が何であれ、サーは助けなきゃいけないし、チャイは渡せん。分かるだろ」
……そうだな。その点に関しては同感だ。嬢ちゃんをこれ以上、医者の目から離しておくのは本意じゃない」
「まずはサーを助ける」
「その先は、行ってみないと分からない」
 まるで詩的な言葉をこぼし、くつ、と笑うチャンと拳を軽くぶつけあって、チャイを呼ぶ。


 ――終着点がどこにあるかは、走り出してみないと誰にも分からない。


「チャイと交換だ」
 踏み込んだ、建物の一室。普段は使われていないであろう倉庫で、チーキットは、そう言った。
…………どうして、俺なんだ?」
 チャイは、口数の多い方ではない。目は雄弁に感情を語るので、何を考えているかはよく分かるが、余計なことは話さない。友好的に話しかけられればこたえるけれど、刑務所でも同僚の話を一方的に聞く役である。
 そのチャイが静かに告げた台詞は、チーキットに通じていないだろう。けれど、眉を寄せ、わずかに震える声で吐いた、その意味はきっと通じている。隣のチャンが、チーキットに問いかける。
「お前――チャイを渡したら、どうする気だ? 痛めつけたいのか、傷つけたいのか、責任転嫁したいのか、殺したいのか、あるいは、犯したいのか?」
――――……ッ、」
 チーキットは答えず、チャイに向かって――駆け出した。
…………!」
 つられて構えるチャイと、チーキットの、三度目の戦いが幕を開ける。
 なんで来たんだ、というチーキットの小さなつぶやきは、聞き間違いだったかもしれない。







――チーキット……!」
 吹き飛び、立ち上がった、愛する娘を誘拐した犯人に向かって叫んだ瞬間、今度はチーキットが前へ踏み出して、くるりとその場でまわり、胸を、蹴られた。
「ぐっ……!」
 上体がよろめいた隙に、懐に入り込んだチーキットの掌底が腹に入る。息を忘れる。吸った瞬間、あばら骨が折れるような痛みが走った。ふ、と音が漏れて、チーキットの肩を掴もうとし、上着を掴むだけにとどまった。するり、と服を脱がれては、追えない。強い。掴んだ上着を投げ捨てて、走り、飛び肘落としを――同じ、肘で受け止められた。
「くッ……
 人体で最も強い箇所同士の激突に、それを予期していなかったこちらの方が大きなダメージを受ける。
 強い。一度目も、二度目も、彼を鎮圧した。チーキットの強さはあんなものではないと予期していても、体感はしていなかったし、きっとすることはないと信じていたんだ。和解をして、互いに生きる意味を互いに見出した、今と、なっては。
 また新たな攻撃が来る予感に、地面に手をついて、前転してその場を離れる。滑るように床を移動して、見据えた相手。
また戦うなんて、思いもしなかった。
…………
 ぽたりと汗が顎をつたった。その汗が、玉のしずくとなって、地面に落ちる。
 それを合図に、また地面に手をついて、側転するように体を回転させ、チーキットの身体を狙った。が、僅かに上体をそらされて、避けられる。身体が正常に地についたのと同時に、後ろ蹴り。これは、あたった。わずかに吹き飛んだ身体を追うようにして、飛び膝蹴り――! 入った、と思った瞬間、己の腹に同じくらい、めりこむようにチーキットの拳が入っているのに気づいて、ぐ、と呻き声が漏れる。己の飛び膝蹴りの勢いがそのまま、その拳に乗っている。内臓が押しつぶされて、倒れたチーキットに覆いかぶさるようにして、膝をついた。
 何か理由があるのだろうか、だとか、恨まれても仕方ない、だとか、そんな思考を持つ暇などない。己の下にいるのは、強者だ。隙を見せればやられる。マウントポジションを取ったような形にはなっているけれど、拳はしっかりと腹にめりこんでいるから、優位ではない。
 振り上げたこぶしをチーキットの顔に落として、そこから滑るように肘に移行する。がつ、と肘が突き立てられたのは、地面。間一髪でよけたチーキットが前のめりになった己の後頭部にこぶしをいれる。
「ガッ……!」
 一瞬意識が、くらりと飛びかけた。
 このまま組んでいても泥沼だ、と弾かれたように立ち上がり、後ろに下がり、起き上がったチーキットと見つめあう。その、瞳は。
 腐ってなどいない。サーを助けると誓った時の、宝石のようなきらめきを宿した瞳だった。それなのに、どうして。
 ……本当に、味方になると最高だが、敵になると、厄介極まりない男だと、思った瞬間。
 肩に痛みがはしり、よろめいた。
…………ッ、?」
 ついで、ガクン、と。
 脚に激痛を覚えると同時に、地面に、倒れる。
……チャイ!? ぐっ!」
 同じように、糸が切れたみたいに脚に力が入らなくなって倒れたチーキットを見て、じくじくと痛み、流れていく血の感覚に、ようやく、何か、されたのだと気づいた。
 高晋に暗器で刺された時も、はく、と息を失って、その痛みに愕然として、立ち止まった。経験したことのない、痛みだったからだ。普通に生きていて、刺されるなんて体験をすることはない。それと同じで、この痛みが何なのか分からない。何故、己の肩と膝から、血が流れているのだろう。この痛みは、まるで何かに貫かれたようだ。ばす、という音がして、コンが腕を抑えた。その先。コンの背後の壁に、穴が開く。
――狙撃だ!」
「チャイ、狙撃だ……!」
 チャンの叫びをコンが己に向けて通訳してくれてようやく、撃たれたのか、と分かった。撃たれた。撃たれた。そう認識したらひどく痛くて、同時に動かなければ、とよぎる。動いて、避けないと。狙撃。どこから。窓。割れている。先。建物。誰かが、窓のところに。
――……チャイ……!」
 切羽詰まった声。耳になじんだ、コンの声じゃない。ああ、なんだ。恨まれてるのかな、って、ちょっと本気で心配したじゃないか。
こんなに必死に己の名を呼ぶのなら、やっぱりそんなことないと、こちらだって自信を持てるというのに。
……チー……
 キット。
 やっぱり、優しい、声をしている。
 視界の端で、チャンが窓に向かって拳銃を構えている。独特の破裂音はおそらく銃声なのだろう。舌打ちするようなチャンの声に、狙撃手には当たらなかったのだろうとよぎる。ああ、いたい。血が、水みたいに流れていく。チーキットも、コンも痛いだろう。
 なぜ。だれが。どうして。
 とても、いたい。意識が、飛びそうになる、くらい。息をするたびに、肺まで激痛が駆け抜ける。ぼう、と遠く離れたところに、己自身が落ちてしまうような感覚の中で。

――パパ!」

 悲痛な叫び声で、視界が一気に開けた。
「サー……!?」
 顔をあげる。入口のところ。いた。でも、どうして。
 女性と、その女性に銃を突き付けられた、サーが、立っていた。
……!、?」
 美しい――女性であった。
 艶のある長い黒髪は胸元まで垂れ、白皙の美貌、と言って差支えのない顔立ちが怜悧にこちらを見据えている。唇も小さく、桃色で、瞳は長い睫毛に縁どられていた。可憐で、華奢な首と肩は、暴漢に襲われでもしたら瞬く間に折れてしまいそうだ。
 だが、彼女が持っているのは銃で。
 彼女の腕の中、押さえつけられているのは、己の娘。
 大丈夫か。怪我はしていないか。視界が明滅する。立とうとしたのに、力がはいらない。手が、血で滑る。
「サー……!」
 あれは駄目だ。
 はやく、助けてあげないと駄目だと、歯を食いしばって。
 こちらにゆっくりと向けられる銃口に時が止まる。
……×××……!」
掠れるチーキットの声がおそらく静止の旨を叫んでいて。
…………さようなら……!」
 低く、地を這うような恨みの声が、女性から静かに、放たれた。






 互いに、恋など、愛など、一切ない結婚だった。
 政略結婚というには、彼には政略させるほどのものは何もなかった。成り上がりだ。一体どこの誰が、かつてカンボジアで犬の餌になりかけていた男と娘を政略結婚などさせるだろう。その娘が、それほど大した価値がなかったとしても、だ。政略を望むなら、もっとましな人材はいくらでもいる。
ただ、男には力があった。わたしは幾人かいる娘の一人で、急速に勢力を伸ばしつつある彼の所属する組織と父が表面上は和やかに話すのを、ナイフとフォークで白身魚をつつきまわしながら聞いていたのだ。
流暢なタイ語で、男は話す。もともとタイとは何の関係もない人生を歩んできただろうに、ご苦労なことだ。
かくいうわたしも、タイとは関係のない、数か国語を、日常会話に差しさわりのない程度に覚えてはいるが。
「刑務所の所長に就任することが決まりまして」
 組織のトップ、ホン・マンゴンは多忙な男で、タイまで来ることは殆どない。多忙というより――思い出すまでもなく脳裏にありありと描かれる血色の悪さから察するに、体調の問題なのかもしれないが。
 その、タイと香港の臓器売買ビジネスで、架け橋となって暗躍しているのが高晋という男であった。
 美しい、男といえよう。
 白皙の美貌と、デザイナーに整えられたような髪型はよく似合っていて、彼以外の誰かがやったら間抜けにも見えるほどだ。細い肢体はどこか女性的でもあり、けれど額に浮かぶ血管が、おそろしくも妖しいアンバランスさを主張しており、その男は、あたかも一枚の絵画のようであった。
「おお、そうか、君もついに」
 タイで有数のマフィアである父はめでたいことだと彼の肩を抱き、グラスに酒を注いだ。
その頃にもなれば、わたしはわたしの運命をうすうすと察しはじめ、無性に煙草でも吸いたい気持ちに駆られていた。
――嫌だった、わけではない。
 ただ、この男の女になるのか、とうんざりしただけだ。
 わたしをないがしろに、この場限りの道具に用いようとしている父にも、腹が立つ。幾人もいる娘の中で、わたしはわたしを、一番賢いと思っているのだ。少しずつだがわたしなりの人脈を整え、わたしの組織だって作り始めている、ところだったのに。
 わたしのような絶世の美女と、高晋のような絶世の美男子では、よくもまあ、つりあうこと。
 皿に残ったソースに、最後の一切れを絡ませて口に放り込むうちに、わたしが男の妻になる話は着々とすすんでおり、父に名を呼ばれた時には、ナプキンで口元を拭いて、艶然と微笑むことができた。
「ええ、構いませんわ。
……これから宜しく、お願いします」
 光栄ですわ、とまで言わなかったのは僅かな意地に近いだろう。
 それじゃあ、後は夫婦二人でごゆっくり、などと一世紀も前の老害が放つような言葉を最後に父は立ち上がり、それを見送るわたしと高晋に下卑た眼差しを向けてから、とうとう口に出した。
「高晋くんに、しっかり奉仕するんだぞ」
 その場で殺さなかったことを、誰かに褒めてほしい。
 父が去り、「では、私らも行きますか」と車に乗り込んで彼の家に着くまでの間は無言だった。この男の中で、わたしはきっと辱められているに違いない。それがたいそう、気持ち悪く。
 無言のままバンコクの夜を駆け抜けていく。運転手も、何も言わない。互いに何も言わず、愛などどこにもないまま、たどり着いた終着点で。
 家に入って早々、男は煙草を取り出して、ウイスキーをコップに注いでわたしにも差し出したあと、深々と煙を肺にため込んだ。その、喫煙の様子が――わたしに、とてもよく似ていた。
「先に言っておくが、私は君になんの感情もない」
 白い息を吐き出して、父と話しているときの穏やかに媚びた声とは全く違う声音で、男は言った。
「夫婦として君に求めることも特にない。食事も作らなくていいし、掃除も不要だ。すべて雇う。式は対外的な面でした方がいいだろう。希望はあるか? ああ、子どもが欲しかったら、善処しよう」
 ウイスキーを煽って、一息で言い切るさまには、なんの感情も乗っていない。きゅ、と、ミリ単位で計算されたであろうネクタイの結び目を解いてわたしを見る、その瞳。
「わたしも、あなたには何の期待もしてないわ。それにしたって、随分ないいようね。父に言いつけるかもしれないのに」
「君はそれほど愚かな女ではないだろう」
「そうね、父なんて糞食らえだわ」
「私のビジネスの邪魔をしなければそれでいい」
「わたしのビジネスの邪魔をしなければそれでいい」
 オウムのように繰り返し、けれどけして言葉遊びではなく、本心を告げあう。
最悪を想定していた。男はわたしに妻として多くのものを要求し、わたしは男を愛さなければならない、なんて悪夢を。
 ああ、良かった!
 男はわたしに一切合切の興味がなく、ただ役割としての結婚を求めている。独身だと告げただけで目の色を変える男たちが気持ち悪く、大嫌いだった。あるいは、わたしのビジネスを邪魔するものだったら、排除しようと思っていた。夫ならば、いつだって毒を盛れるだろうと予期していたわたしに――男は牽制しているのだ。
 君の作ったものは食べないし、君が触れたものに触れる気もなく、君自身が何をしようと関係ない。どんなことを、行っていようとも。だから、互いにメリットのみを享受しよう、という提案。あるいは、脅迫。
 それはたいそう、ありがたい話だった。
「円満な新婚生活になりそうね」
煙草を取り出して、わたしも同じように火をつける。
 恋でもない。
 愛でもない。
 互いに利害が一致して、利益があって、それだけだから結婚する。
 大切でもないし、執着もない。男がどこで死のうが興味もない。邪魔になったら殺すかもしれないが、少なくとも今じゃあない。
 円満な新婚生活。

 ――ほんのわずかな変化に気づいたのは、いつだっただろう?

 男が死ぬ、数日ほど前の話だ。狼の剥製を手に入れた。男は剥製が好きで、美しい野生が物言わぬ永遠になるのが心地いいのだと言ったことがあった。あなたが剥製になったら、さぞ美しいことだろう、とわたしは思ったが、口にはせずに「じゃあ、機会があったら貰っておくわね。要らなかったら捨てて」と言ってやったのだ。まさか本当に剥製なんていう、何に使うのか全く分からない、何がいいのか微塵も理解できないものが転がり込んでくるとは思っていなかったが――存外、悪くなかった。
 男に似ていると、わたしは思ったのだ。
 そうして得た狼の剥製を、男は「気に入った」と言った。いつもの、なんの興味もなさそうな声と表情で。
 それで、その後男が狼の剥製を、ふ、とわずかに微笑んでみているところになんて、出くわさなければ良かった。
 父からの仕事の依頼を男に話そうと部屋をノックしようとした時に、男にしては珍しく鍵をかけておらず、扉も開いていた。奇特なこともあるものだと思った瞬間、隙間から見えた、剥製を眺める男の、本当にうっすらと張り付けただけのような――微笑み。
「何かいいことでも?」
 声をかけながら扉を開けると、男は、ああ、と呟いて、欲しかったものを見つけた、と零した。
……良い手駒だ。強くて聡くなく、御しやすくつけ込み易い。なかなか揃わない条件をかなえている。私のビジネスの役に立つ」
 そう――言いながら、微笑んでいる自覚など、男には少しだって、ないのだろう。
 男が見せる感情など、苛立ちだとか、怒りだとか、そういうものだけだった。わたしが家にいることに慣れたのか。ほんの時々、隠しもせずに疲れたような雰囲気を見せることもあったが、それだけだ。わたしたちは食事を共にとることもなければ、とったとしても特に会話をする必要性も感じない。仕事の話は時折するが、互いが互いのビジネスの手腕を参考にしているだけだ。
汚くていい。犯罪者でいい。金だったら、いくらでも欲しい。
無様に命乞いをする人間を見た時、わたしは僅かに笑えるくらいだ。
 男も、そうだろう。同じくらい、あるいはわたしよりおぞましいくらいに、醜悪な中身をしている。お顔がきれいなだけの、怪物だ。その中に、あたたかいものなどあるわけがない。
 あるわけが、ないのだ。
 それがどういった意味の執着であっても、男が何かにそれを向けている姿を……初めて見た。上司で、命の恩人であるホン・マンゴンへの忠誠を誓う姿とも違う。わたしの前で見せる、紳士的とは程遠い、常に何かに苛立つか興味のない非人間めいた姿とも違う。
 その――狼を。
 一目見て、分かった。
 男を殺した相手のことを、知らないままでは居られないと、直にこのまなこで見た瞬間に。男が四人いて、けれども、その中でたった一人。たった一匹。
 あの狼だ。この狼だ。その狼が。
 ――男の執着を容易に切り捨てて、正義という名の下に牙をむいた、愚か者だと。
 褐色の肌。獣めいた黒髪。なんの特徴もない、黒い瞳。
 学もなく、金もなく、品性もない、野生の狼ごときが、男を永遠に葬り去った。男の妻であるわたしまで、警察の手が伸び、ビジネスは破綻。地位を追われて、何も残らないような状態に貶めて!
 なお、幸福めいて笑う、その姿。
 復讐という手段があるのなら、この目的にこそ相応しいだろう。
 なんの情もない。恋でもない。愛でもない。ただの同居人と言った方が正しい、その男の命をもってして。
 葬儀も行われない、犯罪者として野垂れ死ぬ――カンボジアで拾った命をなんにも残さずに散ってゆくだけの、無意味な生をもってして。
 それでも、わたしは男のことが、嫌いではなかった。
 そして、わたしの人生を狂わせたことが、なによりも、許せない。
 恋でもない。
 愛でもない。
 夫でもない。
 ただ――あの時見せた、微笑みは。
 ついと零れ、己でも多分最後まで気づかなかった、薄い唇にのこる、微笑みに。
 目を奪われた。そんな顔が出来たのかと、はくり、息を失って。
 ……男のことを、狼のような男だと思っていて、それ以上に、男は狼に恋を、していた。恋、などという感情を括るべきかは知らないが、執着に名前をつけるのならば、きっとそれが一番近くてただしいのだろう。
 ただしいくらいに間違った、その恋の微笑みが、ほんの僅か、好きだった。
 だから、妻として、ただの仮面夫婦の片棒を担いだ共犯者に過ぎなくても。
 初めてのこいがたきくらい、最期に殺して、いいでしょう。






「やめろ、約束が、違ッ………!」
 悲鳴のように叫ぶ己をあざ笑う女が、引き金を、引いた。
――――……!」
 妹のことも、守れなかった。
 永遠に思える時間の中で、足の痛みを無理やりねじ伏せて、立ち上がる。(いやだ)伸ばした手なんて、はるか遠く届かない。白く細い指が、お前には無理だというようにおり曲って。(いやだ)間に合わないことなんて、誰が見たって明白なのに、諦めるなんてできるわけがなく。(いやだ)やっと見つけたんだ。生きる意味を、目的を、あんたがくれた。(いやだ)諦めばかり知った俺に、叔父が道を示し、あんたが道を拓いてくれたから、奇跡を知って。(いやだ)あんたとサーがいるから、俺は。(いやだ)やっと見つけた。(いやだ)俺だけの。(いやだ)俺の――チャイ。
 黒曜石の美しい瞳が、月みたいに浮いている。
「ッ、チャイ!!」
 そうしてあんたは、いつだって俺の欲しいものをくれて、その為ならなんだってするのだろう。
――叔父さん……!?」
 チャイに覆いかぶさるように、ずるりと倒れこんだのは、俺の、ずっと、未来永劫変わることなく、過去も今も生まれた時から、俺はお前の叔父だからなと言い続け、いつだって味方であり続けてくれた――チャン・クォッワー、その人、で。
 叔父の、幼いころから見続けた背中に、じわりと赤いものが広がる。
「ッ……!」
 サーを抱えたままの女が、舌打ちをして再度、引き金を引こうとする。「叔父さん!!!!!」目を見開いたサーが女の腕の中で、暴れた。「この、」それでも些細なものだ。子供がいくら暴れたって、ほんのわずかの時間稼ぎにしかならない。
 その、ほんのわずかな時間で、良かった。
 指、一本。
 女は明らかに、武術的に素人だった。分かっていても、サーを奪われては抵抗できるものではない。サーは傷一つだって負えば致命傷になりかねないのだ。チャイを連れてこいという命令にも、従わないわけにはいかない。たとえ誘拐犯という汚名を着せられようと、その尊く、幼い命を――どれだけ怖いか想像もできないくらいなのに、待ってると言ってくれた少女を――見殺しになんてできる筈もない。
 指一本、サーにも、チャイにも、触れさせたくなどなかった。
 たった二本の指で己の体重を支えることができる、カンフーとは鍛錬だ。己は組織に潜入してからだって、鍛錬だけはやめられなかった。精神が堕落しようと、どこまでも堕ちてゆこうと、長年の習性は簡単にはなくならない。息を整える。気を感じる。さすれば、指一本とて、棍より硬い武器となりえるだろう。
――チッ……!」
 一瞬、女の額に指を突き立てて、はなした。
 その一瞬で、女は意識を失い倒れこむ。
「はっ…………
 集中力が要った。ほんの僅かでも力をいれすぎれば、女は死んでいただろう。サーの目の前で、人を殺すことは避けたかった。
「っ……叔父さん! チャイ! コン……! サー……!」
 誰か一人でも欠けては駄目だ。誰か一人でもいなかったら、己はここに、いないのだから。
「だ……いじょうぶだ」
 背中を朱色に染めながらも、叔父は笑い、チャイも頷いてくれた。びりびりと、眼前に銃口を突き付けられて逆立った毛を、下げて。コンも、大丈夫だと言い、そして、サーは放心したようにこちらを見ていた。ああ、誰もかれも血まみれで、こんなもの、サーに見せるわけにはいかない。
「だから、警察ときてくれ、って」
 誰もが無事だと分かったらほっとして、そう文句を言った。三日後。そう指定したのは己だ。警察と一緒であれば、少なくとも、みんなはこれほど痛い思いをすることは、なかったかもしれないのに。

 ――その空想を裂いて、声が落ちる。

「いやいや、警察ときても、変わりませんよ」
……誰だッ……!?」
 振り向くと、ライフルを持ってスーツを着た男が一人、立っていた。理知的な空気を纏った男は、口の端を釣り上げて倒れた女を見ている。
……オー……?」
 呆然と、叔父が目を見開いた。
……お前、それでも警察か」
 知り合い。否。チャンの言葉から察するに――警察官。
「警察官でもありますが、金の入るビジネスも行っている。それだけの話です」
 いつか己にも言った、叔父の言葉。警官であることは、叔父の人生の、一部なのだ。長い間憧れてきた警察とか、正義の体現者である叔父にそう言われた時が、多分一番きつかった。弱音を容易く吐いてしまうくらいには。
「スナイパーがいること、すっかり忘れていたでしょう。照準をあなたに壊されたので狙撃は無理ですが、そちらの主人を持ち帰ることはできます。馬鹿で愚かな女ですが……私の主人でしてね」
 照準器が壊れても、銃としてなら扱える。
 トンファーを扱うみたいな身軽さで、くるりと肩にかけていた銃身を、男がこちらに向けた。
「返してもらいますよ」
――――……ッ」
 ――先ほど、立とうとしていたのはチーキットだけではない。
 チャイが撃たれるかもしれないのに、脚を撃たれた程度で寝転がってなどいられるかと、コンとて立ち上がっていたのだ。
 男が流暢に話している間に詰め寄ったコンが、ライフルの銃身を素手でつかんで、上に向けた。同時に、ぱぁん、という凄まじい破裂音。この間近で聞くに、耐えるものではない。
 肩の上のあたりを、それでも掠った銃弾にコンが倒れて、
 ――狼が、牙をむく。




 相手の胸を蹴って、脚をとめ。
飛び膝蹴りを、顎に、あてる。
その跳躍力と威力は、顎の骨を砕く。
――〝鬼の都ロンカーを渡る猿王ハヌマーン〟。
古式ムエタイにおいても、相応の威力を持つその技を食らって立ち上がれる者は、まずいない。
膝からは血が流れ、激痛にさいなまれていても。
手加減など微塵もなく。
倒れる相手に、くるりと回した拳を突き付けて、もし立ち上がろうとすぐさま反応できるように在る。
……ああ、俺のヒーローは、違うな。
あまりに格好良くて、チーキットは目を奪われるのだ。
あんたに出会えてよかった。
あんたのお陰で、生きていける。
あんたが――どうしようもないくらい好きだと、不意に、思った。







まるで家みたいに、ながいこと、病院にいる。
いつもは友だちとサーだけだけど、半年前とおんなじように、こぞって入院しちゃったから、寂しくはない。でも、みんな怪我をしている。しないのがいちばんだ。
寂しいことと同じくらい、こわいことは苦手だ。スケートだって、とっても怖くて足がすくんでしまったくらいなのだ。
サーの秘密だよ。内緒にしてね。
怖がりで寂しがり。ほんとうは、明日目覚めるのか、毎日怖くて泣きそうになる。そんな子だって、内緒にしてね!
何故かというと、サーのパパはとっても心配性なのだ。素直ですぐ人の言うことを信じてしまう面もあるから、あんまりなんでもかんでも伝えてしまうと、すぐに不安げな顔をする。
パパにそんな顔をさせたいわけじゃない。
ハッケツビョウ、と診断されるまで、おうちではいつも、パパと寝ていた。ママが死んでしまうまでは、ママも一緒に寝ていた。
病院に来てみたら、パパと一緒に寝ることができない、というのが実は一番、吃驚したことだ。
だから、いまこうやって、パパは怪我をして大変な思いをしているというのに、一緒に眠れて、サーはすごく、嬉しいのだ。
正しくは、パパのベッドにこっそり潜り込んだのだけど。
パパの身体は暖かくて、その身体に抱きしめられるのが、サーはとっても好きだ。
ふふ、と、侵入者に気づかず眠り続けるパパの横で、パパったらお寝坊さんだなあと笑っていたら、隣のベッドからもぞもぞという音がした。
こてん。寝返りをうったチーキットさんと目があって、あ、と声が出る。いけない。パパが起きてしまう! サー、ちょっとうるさいよ!
丁度起きちゃったのか、それとも眠れなかったのか、チーキットさんはばっちり目があいていて、サーが慌てて「しー」とすると、目を細めた。
チーキットさんも、痛い思いをいっぱいした。
それでも、わたしを助けてくれるひと。
そう思ったらたまらなくなって、その腕に守られた時間を思い出す。
「チーキットさん」
 こしょこしょと囁いて、手招きする。
 病院のベッドはひろくない。何しろ、サーがパパの横に潜り込んだだけでぎゅうぎゅうだ。
 でもでも、安心してほしい。パパにぎゅうっと抱き着いて、ちょっと押し込むようにすれば、ぎりぎり、もう一人寝ころべなくもないのである。
 ほら、空いたよ! と目くばせすると、チーキットさんは瞬いて、それからベッドにもぐりこんできた。
 うああ、あったかい。
 まるでママとパパに挟まれて寝ていたころみたいで、ぎゅうぎゅうと詰まっているから寝苦しいはずなのに、すっごく安心する。
「大丈夫か!? 怪我は?」
「サー、良かった、無事で……!」
 駆け寄ってきたパパとチーキットさんに心配そうに抱きしめられた時、「パパって、とっても、強かったんだねえ!」とたまらず言ったら、へなへなと力が抜けてしまった二人が、サーは、すごく好きだ。
 だって、パパがムエタイをやるのは知ってたけど、あんなに強いなんて知らなかった。
 チーキットさんが空港で急に襲ってくる人からわたしを守ってくれた時に、映画の中の人みたい……! と目を丸くしてはしゃいで。
 とっても怖かったけど、ほんとうに、楽しかったのだ。
 あと二年半。がんばってねサー、と己に告げて、目を閉じる。
 パパ。
 わたしは、大丈夫だよ。
 きっと、半年が過ぎても、何度でも、大丈夫。
 痛くても、つらくても、くるしくても、何度でも立ち上がって、力を合わせてサーを助けてくれたみんなの姿をみたら、きっとそうだと、思えたから。
 サーは、大丈夫。


……たぶん、こいつら、これで自覚がないんだろうなあ……
「まあ、いいんじゃないか? 俺たちと違って二人はまだ若い。時間は――これからたっぷり、あるんだから」






 最期にのばされた手のあたたかみが、己のさいごの記憶になろうとは、思ってもみなかった。

 意識が落ちる寸前。本当にもう、まさか、こんな最期を迎えるだなんて予想だにしていなく、ただ苦しく、無様な――希望の架け橋だとか礎になって死ぬのは御免だった。
だが、どれほど嫌だと願おうが、呪おうが、のばした手は空を切り、何もつかめない。暗闇に堕ちる、寸前。
 あたたかな手が己を掴み。
 きっとこいつは、己の名前だって覚えてはいないのだろうと思ったら――少しばかり、笑える話だった。
 愚かで、御しやすく、容易く己のモノになるはずだったのに、ことごとくを裏切ってくれた、最低の獣に。
 それでも、人生最後の日に、すべての終わりの瞬間に、こんな男のぬくもりなんてものを感じながら死ぬだなんて、笑い話でしか、ないだろう。




――それで、死に至る恋に堕ちた。