hinohi_no
2025-03-19 23:03:28
5871文字
Public 九龍城砦
 

わたしは星を見る/九龍城砦

それでも、立ち上がるものだけが。

 洛軍はたった一人で、九龍城砦に向かった。
 言葉にしなくても分かっていた。洛軍が来たときから、彼が今までどうしていたか知らなくても――ただ生きてさえいれば良かった。指を失い、足を引きずり、過去に囚われ、大切な人を喪失した果てで、散々報われてこなかった彼がこれからも息をしてくれていたら良い。
 だけど陳洛軍が覚悟と信念を携えた男であることを、誰もが分かっていた。四人揃ったら、やることは? 吐く息すら重い沈黙の中で、きっと出るであろう言葉は出なかった。
 洛軍は、きっと俺たちと行こうと思っていた。そして思い直したのだ。それが優しさと残酷さの裏返しであることを知っている。
 どうする? なんて互いには聞かなかった。これは、自分で決めることだ。自分の責任で果たすことだ。
 己の意志を、改めて問うことだ。
 ――お前はどうする。洛軍が積んだ麻雀の牌が、その選択を残している。
 
 
 あの日のこと。
 あ、と思ったのは一瞬だった。脚には今までにない痛みの感覚が走っていた。大事な何かが壊れたと体が察していた。
 それでも一向に構わなかった。本当なら十二は名前よりひとつ歳を重ねたとき、この世の終わりみたいに落ちぶれていて、くたばっているはずだった。
 それを救ってくれたのは龍捲風の兄貴で、薬物の禁断症状に暴れる体を抑え、水を飲ませ、どんな罵詈雑言も受け入れてくれた。十二はあの時、常人が生まれてから死ぬまでの間に使う悪い言葉を全部口にしたと思う。
 禁断症状は苦しくて、気が狂いそうな程の辛さを与えてきた。頭もバカになったし、体もガリガリになった。
 こんな苦しみを耐え抜いた先に何があるんだろう。もう死んでしまいたいと何度も思った。
 そんな手を握って、お前には未来があると言ってくれたのは龍兄貴で。
 そんなガキが生きていく場所をくれたのは虎兄貴だった。
 放って置けない兄弟を得て、刀を握った。その選択に後悔はあるかと問われれば、ない。だけど自分が未熟で、弱くて、負けたことは事実で。
 龍兄貴が死ぬのを止められなかった。それだけじゃない。虎兄貴の元に無事に戻ると約束したのに、引きずる足は碌に動かない。
 果たせない約束の上で、ギプスをした足を撫でる。
 動かない。あの頃のように跳ね回れない。杖を置いて、刀を握った。果たしてこの体は、まだ戦えるのか――洛軍に、追いつけるのか。だって己は手も足も出なかった。王九に完膚なきまでに叩きのめされて、勝つ手段があるのかと問われても答えられない。
 ――それでも。
 片目を失って、喉を切られた、俺の憧れであり続ける人を想う。仮に十二が目を失ったら、きっとこれまでとは全く違う生活になるだろう。盲点は増え、見えない視界が弱点になる。
 それでもその人はずっとずっと強く、俺のすべてでもあり続けた。
 だったら。
 たかが足一本だ。切り落とされたわけでもない。己の武器は手の中に。筋肉だって落ちたわけではない。ずっと昔、ヤク中だった頃に骨と皮だけになった後から、鍛え続けた体は思いの外、十二を裏切ったりしない。目を閉じる。刀を抜く。目も、耳も、腕もあった。瞼の裏で、イメージができる。今までの全部が、十二にできると訴えている。
 ――ならばそう。丸坊主の兄弟に追いついて、虎のように駆けることはできるはずだった。
 
 
 あの日のこと。
 四仔は黒社会のことが大嫌いだが、龍捲風と信一と十二のことは別だった。九龍城砦の中に法はない。代わりに統治するものが存在するのは自然な成り行きだ。それが黒社会であるならば、もっと酷い場所にもなれた。
 でも、龍兄貴は恩人だった。もし洛軍から見て、九龍城砦の人々の生活が少しでもマシに見えたならば、それは彼の成果でもあった。落ちるところまで落ちた人間が最後の最後、踏みとどまれる場所は僥倖なのだ。
 守れなかった人がいた。それが四仔の後悔だ。夢を見る日はきみに会う。あの日の四仔が救えなかった人。顔を隠しているのは傷跡よりもその苦しみからで、でも龍捲風はマスクを取れとは言わない。その苦しみが癒えるまでいればいいと言ってくれる人だった。
 あの人は、誰かの止まり木になろうとしたけれど、俺たちは皆その木にずっと留まっていたかったのだ。
 誰にも言うなと止められるたびに、不安だった。本当に? あんたを愛してやまない信一は知らなくて良いのか。せめてあいつには教えてやった方がいいと、何度も言った。
 その度に彼は信一にだけは言うなと告げるのだ。まるでそれが愛のように。
 いいや、実際愛だったのだろう。あなたの愛は信一を守ることだった。あの屈託のないバカを、そのまま笑っていられるようにすることだった。
 だからあなたは、笑って扉を閉めた。
 信一は血まみれの拳すら使って扉を開けようとして、何度も叩いて、必死に叫んでいた。その光景が過去の己と重なって動けなかった。汗が噴き出て、体は震え、その愛の終わりを見届けるしかできなかった。
 生き延びた先で俺のせいかもしれないと過ぎる罪悪感と昔のことと信一の叫びがフラッシュバックして、気がついたら倒れていたりする。医者だって言うのに情けない。心のことは違うだろ、と十二は背中を撫でてくれるし、信一は気にするなと眉を下げて言う。
 九龍城砦に戻れる状態じゃないと自分では思った。絶対に許せないのに。王九に、その怒りを叩きつけるべきなのに。ただずっと闇の中にいるようで、苦しくて、毎日よく眠ることもできなくて――だから。
 洛軍が戻ってきた、生きていた、その喜びと確かな体。暖かさ。そのすべてに胸を撫で下ろして、久々によく笑い、飲み、眠った。本当に、嘘みたいにぐっすり眠れたんだ。
 顔の傷跡を、ゆっくりとなぞる。
 本音を言うと、九龍城砦に足を踏み入れた瞬間に発作が起こったらどうしようかと怯えている――そう、己は怖いのだ。
 積まれた麻雀牌には、己の投げたひとつが欠けている。水に沈んだそれを自分だと、この先ずっと思っていくのか?
 失うことを厭うなら、洛軍を一人で行かせるべきじゃない。
 洛軍は友達だ。
 恋人のきみを失って、恩人である龍捲風を失って、それで友まで失うことを見てるだけなんて、それで良いのかと聞かれたら。
 全然よくない! 四人で麻雀をして、酒を飲んで、それで笑いあうのだ。そんな日常をこよなく愛していたのだ。恥ずかしいから口には出して言わないけれど、四仔にとってあんな楽しい時間はなかった。顔の傷も消えない過去も、笑い合わない理由にはならなかった。失ったものはなんだ。
 マスクに手をかける。こんなものがあるからきっといけなかった。
 許してくれ、と誰かに向かって呟いた。きみだったろうか、吹く風にだろうか、あるいはあの日の信一にだろうか。分からないけど、誰かが許してくれることはない。
 ――それでも。
 自分自身を許さなければいけない時が来たのだろう。それは九龍城砦を取り戻した時に果たされる。
 だったらもう、迷うことなどなかった。
 
 
 あの日のこと。
 命より大事な全部を失って、信一はそれでも生きていた。あの人の最後の望みを破るわけにはいかないから。それだけはと必死になって息をした。
 龍捲風が願う未来。そのためなら、どれだけ無様でも、みっともなくても、泥臭くても。
 生きて生きて生きて生きて生き延びてやると、麻酔なしに欠けた右手に消毒液をぶっかけられながら――血反吐を撒き散らして信一は笑った。
 怪我の影響なく歩けるようになるまでで幾ばくもの日が経過したのも当然だった。今までの人生で一番痛かったし、苦しかった。熱も出たし、そこから暫く咳も止まらなくなった。四仔に咳のしすぎで肋骨が折れてると言われた時は流石にちょっと笑った。
 どんな辛い瞬間にも人は笑うことができると知ったのはこの瞬間で、三者三様に死の淵を彷徨い、何とか必死に生き延びたのだ。
 肋骨の痛みも治って、かろうじて動けるようになってから、バタフライナイフの練習をした。
 大昔は散々失敗して指を切ったりしていたが、左手は五本指が残ってるから問題ない。基本的に、指にはナイフの持ち手と背しか当たらないので、普通に扱いさえすれば怪我をすることはない。ただ、もっともっと扱えるようになりたいと色んな使い方をしていたから、それなりに苦労もした。
 左手は順調。ハンドルを握りしめて操作するだけなら、そもそも片手で扱えるナイフだ。さて、と親指と人差し指だけになった右手で握りなおす。
 開いて閉じて、素早く開閉ができて軽い、投擲も可能なこの武器が信一の性に一番合った。拳の龍捲風と……と己が対のようにた例えられ、ナンバーツーとして名を馳せるのは嬉しいことだった。あなたの背中を守るのも、俺でいたい。
 たった二本の指。開いて、閉じて。それは想像よりもずっと難しくて、軽いから選んだはずのナイフを重く感じて愕然とする。手首を捻ったら、軽やかにすっぽ抜けてしまった。
 反射的に手が伸びて、素手でナイフの刃を掴んでしまった。
 痛いと感じるまでには少しかかったが、赤が滲むまではすぐだった。
 ずるずると座り込み、指から流れる血を眺める。この右手は、龍兄貴が力強く握ってくれた指だった。
 お前がボスだと笑ったあの人の体温ごと、断ち切られてしまったようだった。
 ――それでも。
 どこにもない指に残る熱は、愛だった。
 水面を眺めながら、考える。洛軍は行った。お前はどうするんだと問うている。
 この指は失われた。王九の気功を破る方法も思いつかない。勝てる算段はない。負けてしまえば、死ぬのは信一だけではない。龍兄貴の愛ごと消えてしまうのだ。この肉体すべて、つま先に至るまで――自分は彼の愛なんだと、信一だけは疑わない。
 あなたの生きた、あの場所に。あなたがいないことが、耐えられないほど苦しくても。
 だって、友を見捨てて生きろと言ったつもりじゃないでしょう。勝算なんて後でいい。走り切った先に見る。指がなくても、足が折れても、藍信一は生きている。
 だったらまだ戦える。立ち上がって歩いていける。そのための強さを、あなたが注いでくれたから。だから己は息ができるのだ。
 右手は刺突で賄うか、と立ち上がる。
 振り向いた先で、同じまなざしの友がいるから、本当にもう、怖いものなんてなかった。
 
 
 ◆
 

 最後まで意識を保っていたのは、信一だった。大ボスの部下に殴られ、蹴られた衝撃と痛みで十二と四仔は何をされても反射的に呻き声が上がるだけで、瞼を閉じたままである。
 捨て身の目的は足止めだったから、それは十分に果たしていた。外に出せた洛軍のための救急車が見える。あいつは病院に行く。助かるかは分からないけど、でも信一はきっと大丈夫だと思えた。生きろと言った龍兄貴の言葉を、彼は聞いていた。
 だったら大丈夫だ。信一のすべてであった龍兄貴の言葉をないがしろにするような奴じゃない。
「か……ぁ、はっ……
 指を失った手にまかれた布はとうに赤い以外の色を失っていた。痛みの話をするならば、どこもかしこも痛すぎてよく分からないほどだった。痛い、痛い、痛い、痛い、痛い――けど何よりもどこよりも、大切なあの人がいないことが苦しくて、こんなにも体中が痛くて苦しいのにどこか現実感が薄れるほどたった。
「が、ぁっ」
 ズキズキとした痛みがない指を思い出させる。蹴り上げられた腹の衝撃に唾液がこぼれた。本当に痛い。怪我をしたことはこれまでもあったけど、ああ、そのたびに兄貴がこっそり報復なんてしてくれたっけ、と思い出す。
 あの人は結構、俺に甘かった。愛されていたのだと信一も自覚していた。大切にされていた。一緒に過ごす時間の中で、十分に愛を感じていた。
 痛すぎて意識が朦朧としてきた。目覚めたら、全部なかったことになっていないかな。龍兄貴がボスで、俺はずっとあの人を支える。それで良かったんじゃない、それが良かったんだ。それ以外の未来を思い描いたことがないんだ。は、は、と己の息だけが耳に響く。もう音もよく分からない。
――っは……
 顎を靴先に掬われた。視線だけ動かす。
 王九はうっとうしそうな声で「クソの役にも立たない色男が」と吐き捨てた。こいつは洛軍を追いかけられないのだ。もう表の世界の人間たちが拾ってしまった。喉から血の味がして、それでも声は出せたので。
……どっちが」
 吐き捨てた言葉はちゃあんと気に障ったらしい。俺たちは負けたけど、同時に洛軍も守り抜いた。王九の負けでもある。
 頭を思いっきり蹴られて、ブラックアウト。
 

 意識を失った信一の頭を踏みながら、王九は息を吐いた。
 完膚なきまでに、一切の妥協無く、そもそも龍捲風を討ち取った時点で王九の勝利は絶対で、揺らがない。俺が殺したのだ。誰よりも憧れた男の役に立ったはずだ。その筈だが、いらだちも空虚さも収まらない。
 弱いくせにクソみたいなやつら。
 龍捲風以外の攻撃は王九に届いてすらいない。時間稼ぎでしかないにも関わらず、三人とも必死だった。
 顔を踏んだままの色男は見る影もないほど痛めつけられていて、最早顧みる価値もないほどだった。最初から価値なんてない。金と強さだけがすべてだ。それなのに、龍捲風はこんな弱い奴らを守ろうとして死んだ。
 俺のボスなら、そんなことはしない。それが当たり前だ。それで良い。黒社会でこれ以上何を望む? その筈だろう。こんなものはどうでもいい。なぜだか分からないが、王九は信一が嫌いだった。
 綺麗な顔をしているだけなら良かったのに、いくら殴っても蹴っても切っても立ち上がってくるしつこいやつ。弱くて自由でくだらなくて無様で、みっともないのにしがみついて、足掻いて足掻いて今はこうして泥と血に濡れて。
 ――それでも。
 龍捲風はこの男を寵愛しただろう。言葉通り、王九のような男にも分かるくらい。
 目の前に見せつけられた甘ったるくてかなわない、いつかあの人に食わせてもらったような何かのような、感傷の味がする。
「くだらねぇ」
 口にした瞬間、舌の上に苦みが広がった。信一の手から流れていく血のように。
 サングラス越しに見る王九の世界は、いつだって暗かったのだから。