hinohi_no
2025-03-16 20:16:33
6592文字
Public 九龍城砦
 

うつくしい子供/九龍城砦

九龍城砦を撮る写真家の話。シティツアーの人のイメージ

 九龍城砦の映像を残しておきたいと思いたち、撮影の許可をとるのは本当に骨が折れた。
 まともな人間は九龍城砦に近づくな、一度入ったら二度と出られない。黒社会と生活が入り乱れる奇妙な空間は、日本人には人気が高く、人が住んでいるにも関わらずカメラに収めようと多くの人間が訪れる。
 己もそのうちの一人で、九龍城砦に魅せられている。遊び半分ではなく、写真家というのはそういうものだ。ただし遊びでないからと言って受け入れられるかは相手次第だ。
 ツテを見つけられたのは奇跡みたいなもので、九龍城砦の裏社会のボスに話が通った時は変な雄叫びを上げてしまった。多くの人間には止められたが、撮影して良いと許可が降りたからには絶対に撮る。
 意気揚々と仲介人兼現地通訳を伴って訪れた香港は雑多で活気があって街を歩くだけで撮りたくなる。一応広東語を話すことはできるが、あまり複雑な話になった時に困るから仲介人の存在は心強い。
 下層ではあらゆるものが落ちてくるから、傘を差すといい。仲介人にそう促されたが首を振った。写真家が持つのはカメラだけだ。
「案内役が待ってる」
 戦場でもそうだった。撮影は許可されても一人で歩き回ったらすぐに死んでしまうから、案内人が用意された。これまでどんなところにも飛び込んできたつもりだが、果たして、と思った時に現れたのが――物凄く想像と違った男であった。
 彼は端正な顔と陽気な表情、それから格好つけたようなサングラスで見るからにカメラに浮かれており、はっきり言って拍子抜けだった。どこにでもいる垢抜けた若者じゃないか。案内人と言うからには……
「俺に文句があるなら帰るか?」
 サングラスをかけた彼は親しみやすい若者だったが、ほんの少し疑念を抱いた隙間を縫うように、にこりと笑みを湛えたまま聞いてきた。
「龍兄貴が言うから住人もいないように手配したけど、嫌なら帰っていいぜ。俺は困らない」
 脅しというより、本気でそう思ってそうなので慌てて謝った。人が住んでいるところに部外者が物見遊山で入ってきてると言われても反論の余地はないのだ。それだけは自覚しておきたいし、おそらく誰もがするべきだとも。
「じゃあ――いいか?」
 もう文句はないよな? と再三確認した後の彼はとことん若者で、それでいて絵になるものだから写真を撮ってくれよと言われれば、フィルムが尽きるまで撮ってしまった。九龍城砦解体には多くの問題があると言われているのに、中に住んでいる彼自体は、解体するときに持って行くものをタバコというくらい軽やかに生きている。
 多分、龍兄貴と彼が呼ぶボスがいるから何も怖くないのだ、と思った。最後にありがとうと感謝を述べれば、「信一だ」と名乗られる。
 名乗ってくれる程度には写真家として認めてもらえたのだろうか。分からないけれど、己は九龍城砦にとても惹かれていたから、その住人に受け入れられたことは光栄なことだった。
 
 
 ――それから数年経って、いよいよ九龍城砦が解体されるとの話になった。その話を聞いて、最後にもう一度撮っておきたいとよぎったのは不思議なことではない。
 過去に伝手で繋いでくれた友人とはうまく連絡がとれず、仕方がないので現地で交渉しようとカメラを持って訪れた。正直にいうと、前回あまりにも運が良かったので油断していたのだと思う。
 足を踏み入れて早々、カメラを盗まれた。しっかり首から下げていたのだが、近づいてきた男に話しかけられ、紐を切られたのだ。
「はぁっ……はぁ、はぁ……に、逃げられた……
 全力で追いかけたつもりだが、入り組んだ九龍城砦では地の利がなければ追いつけない。気づいた時にはどこにいるのかも分からなくなっていた。
「困ったな……
「どうしたんだ」
 不意に話しかけられて振り向くと、丸坊主の男性が重いガス管を持って立っていた。軽々と、とまでは言えないが、それほど辛くはなさそうだ。己があんなものを持ったら腰を痛めてしまうだろう。
「あ、ああ……その、カメラを盗まれてしまって……
「日本人か」
 じっとこちらを見据える瞳に、悪いことはしていないはずなのに少したじろぐ。いや、悪いことはしているかもしれない。写真家はいつだって、無遠慮な部外者だ。感謝されることもあるが、散々追い立てられたこともある。
「あんた、写真家なのか」
「数年前もここにきて撮ったことがある。当時は知り合いがボスに話をつけてくれたんだが……
「今は無許可で乗り込んできた? 勇気がある」
 ふっと笑う彼は九龍城砦の住人だろうが、黒社会ではないのだろう。
 連絡が突然取れなくなる友人はままいる。なんと言っても基本は手紙だけのやり取りだ。
「これを置いた後で良ければ探すのを手伝う」
「ありがとう!」
 親切な住人に出会えたようで運が良かった。正直盗まれたカメラが戻ってくる確率は低いだろうが、予備は持っている。今度こそ盗まれないようにしっかり握って、彼に尋ねた。
「撮ってもいいだろうか」
「俺を?」
 不思議そうな彼は確かに数年前撮影時についてくれた男――確か、信一といったか――とは雰囲気が違うが、それでも住人らしく九龍城砦をスイスイ歩く姿が魅力的だった。何気ない瞬間にこそ、被写体は動き出す。
 頷けば、彼は別にいいが……と不思議そうにしながら理髪店にガス管を置き、それから己をジャンク屋に案内してくれた。
 合間に彼の背中を撮った。よく見ると傷跡がいくつかある。黒社会ではないと思ったが、そもそもここに住んでいる時点で訳ありなのだと改めて気付かされる。
「やっぱり無いか……
 男が店主に聞いてくれたが、今日は持ち込まれていないと言う。最近は城砦の外からもガラの悪い連中が入ってくることもあるから、そいつらかも。そんな言葉を聞きながら、もうあのカメラは戻ってこないのか、と感傷に浸った。
「いいんだ、代わりに……この人を知ってるか?」
 当時撮った写真を鞄から出して、男に尋ねる。
――こいつに何の用だ?」
 何故か彼の声が一段低くなった。まずいことを聞いたのだろうか。案内人だったのだから有名人かと思ったが、考えてみればあれから数年も経っている。死んでいるのかもしれないし、そもそももう九龍城砦にはいないのかも。
 というか、物凄く親切だった男が切れ味の鋭いナイフのような声を出すのは、心臓に悪い。他の人に当たった方がいいのか。
「その……昔、案内してくれたんだ。今もいたら挨拶を、と思って」
……悪いが……
 ひんやりとした語感に内心怖気付いていると、「お、何してるんだ洛軍」と今度はおしゃれな髪型をした男が現れた。彼は洛軍というのか――洛軍の肩に腕を回して挨拶をしている。よく見ると、杖をもう片手に持っていた。
「十二」
「信一じゃん。何だ、鉄砲玉?」
「俺が? 違う違う! 写真家で……
 さらりと言ってのけた言葉に驚いて予備のカメラを見せる。興味があるのか無いのか、彼は猫のような眼差しで己を一瞥し、それから洛軍が持っている写真を眺めて目を細める。
「ああ、龍兄貴がいた頃のか。よく笑ってる」
「それが撮れたなら悪いやつじゃないんだろ」
 また見知らぬ声が響く。近くの路地から、傷だらけの男が顔を出していた。少し癖がかった髪が長くて、何より最初に目を引くのは傷跡かもしれないが、顔立ちもちょっと俳優かと思って驚いた。
「四仔」
 なんだなんだ、どんどん人が集まってきた。洛軍、十二、四仔。どことなくダウナーは気配の四仔も写真を見せろとわざわざやってきて、へえ、と目を細めている。
「あの、それで……信一さんは……
「ん〜〜」
 タバコを咥えた十二がもう一度視線をくれる。なんか、殺されるかもしれないと不意に思った。
「そこにいるぜ?」
「え?」
 よく見ると近くの食事処のような場所に、誰かが座っていた。あ、と思って足が勝手に動き、手がカメラを構える。陽の入らない場所が多い九龍城砦で――眩しいくらいの彼がいた。
 帳簿を眺めるその肌は白く、ウェーブのかかった髪型は昔と少しだけ変わっていたけれどよく似合っている。首元があいた黒い服に肩にかけた上着によって、筋肉はあるけれど限界まで細い腰が際立っている。ボリュームのあるズボンを履いた足を組んで、タバコの煙を吐く、その一瞬。
 思わずシャッターを切った。
……なんだ、あんた?」
 当然気づかれて、数年ぶりの信一は首を傾げた。分けられた黒髪が揺れ、頬と鼻に直線でつけられた傷が映る。あんなに美しいのに、と思う自分と、よく似合っていると思う自分がいる。
 何より驚いたのは、あの闊達で明るく街で騒いでいる若者のようだった彼が――しなやかな獣のように成長していることだった。たかが数年の間に。
 まつ毛を伏せて美しく眉をつり上げた信一は、あの頃のようにサングラスをかけて愛嬌を振り撒くようには見えない。乱雑で混沌な飲食店の全ての中に、静かに佇む姿は蘭のようだった。
「昔お前の写真を撮ったらしい」
 そんな信一を庇うように、洛軍が写真を彼に渡す。出会った時はとびきり人がいい住人だと思った洛軍は、今はまるで信一の右腕だ。
 あ、と二度目に呆けた。写真を受け取る彼の手から、指が三本消えていた。黒い指ぬきの手袋から覗く、傷跡。
 深くタバコを吸って、信一はふっと笑った。
「あん時のか……懐かしいな」
 その声には喜びと嬉しさと寂しさが滲んでいて、たじろいだ。城砦の取り壊しの後のことを、あんなに普通に語っていたにも関わらず――信一の声は、今更ながら消えゆくものを惜しむようだった。
「久しぶり、また撮りにきたのか」
「うん。でも信一さんがいないから、カメラを盗まれてしまった」
 冗談まじりに言えば、「俺がいても大した役には立たなかったろ」と信一も返してくれる。
「叉焼飯でも食うか? 奢るよ。あと、洛軍ももう良いぞ、警戒しなくて」
「昔の知り合いでも危ないかも――もがっ」
 洛軍は粘ったが、信一が自身の咥えていたタバコをその口に押し込んで黙らせた。俺は浮ついた気持ちで信一の向かいに座る。
「写真。撮るならそこの十二と四仔も」
「俺はいい」
「十二坊ちゃんだ」
 最後に洛軍はもう一度だけ信一に何か言おうとして、大丈夫だって、と言わんばかりに肩をすくめた彼に十二たちと共に隣のテーブルに腰掛けた。彼らが俺も叉焼飯、俺も、と頼む中、信一は何も頼まずに写真を眺めている。三人が和気藹々とテーブルを囲む姿を撮る。シャッター音に信一が顔を上げた。
……取り壊し前に?」
「最後に撮りたくて。信一さんは……元気そうで良かった」
「そ?」
 彼は手元の写真を机に並べて、目にとろりと甘いものを滲ませている。あの時の、未来に怖いものなんてなさそうだった輝かしい人。
 きっと、会わない間に失ったのは指だけではない。
「今も、持っていくものはタバコ?」
 実際に九龍城砦に住んでいない己としては、タバコを持ち出すなんて答えは予測できなかった。即物的だとも思ったし、でもこの九龍城砦で生きるのはそういうことなのかとも。
 信一の視線が、こちらに移る。
 まるで俳優だし、彫刻だし、久々に生で見たら――綺麗すぎる。こんなにも、美しい男だったろうか。こんなにも儚い男だったろうか。絶対に違う。生の喜びに溢れた存在だった。子供のようにはしゃいでいた。
「ああ。タバコかな」
 洛軍に渡してしまったから空いた口元に、新しいタバコを咥えて火をつける。唇をまじまじと見てしまった自分に気づいて、そっと目を逸らした。
「お待ち」
 叉焼飯が出来上がって、テーブルに四仔さんが配膳してくれる。すみません、と咄嗟に日本語で謝れば、彼からもどういたしまして、と日本語で返ってきた。日本語が喋れるのか。
「食えよ、美味いぞ。九龍城砦の名物だ」
 以前は写真を撮るだけだった。そういえば腹が減った、と一口頬張ればその美味しさにとろけそうになる。
 うまいうまいと掻き込んでしまって、最後の一粒まで米を舐める。顔を上げれば、信一が見終わった写真をまとめて返してきた。
「一人つける。好きに撮っていくといい」
 そっと隣のテーブルを見る。全員ムキムキなので頼りになるが、妙に警戒されてる気がするのでちょっと気まずい。一人選ぶなら四仔さんが良い。洛軍は信一の話題になってから冷たいし、十二は猫のような雰囲気だけど油断すると虎になりそうな感じもする。
「うちの若いのだよ、安心しな」
 よいしょ、と立ち上がった彼は一瞥で奥の方にいた男を呼び、顎でこちらを指す。
 以前来た時は、あまりにも信一が気さくだったから忘れていたが――彼は黒社会の人間で、部下もいるのだ。そして多分、あの頃よりも出世している。
「最後に」
 カメラを構えれば、彼は少しだけな、と笑った。撮ってくれよと自ら強請ってきた男はもういない。一枚、二枚、三枚。その美しさを余すことなく撮りたい。そう思うのに、被写体の彼がレンズの向こうで、己を見る。
 その一瞬で目が離せなくなる。唇が薄く開き、何かを言いたげな――けれど決して口にしない、綺麗な花。瞬きののち、黒い瞳に光が入って。
 風が吹いて、彼の髪を撫でた。
 その瞬間の表情を夢中で捉える。赤い唇。黒い髪。白い肌。愛おしむように細めた瞳。絵画のようですらある、柔らかな美しさ。
「ふふ、ここまで。じゃあ、達者でな」
 手をかかげて彼が歩き出す。それに洛軍がいち早くついていき、十二と四仔も席を立つ。この時ばかりは出会った時のように、彼は軽やかに去ってしまった。
 残ったのは己と、信一の部下。
「えっと……じゃあ、いろいろ回って撮りたいから……
 彼に説明をして九龍城砦を歩く。独特の匂い。騒がしい声。この全てが、もうすぐ消えてしまう。
 人々の活気。暗闇で死んでゆく人。光と闇。歴史と現在。
 誰かがそこにいた証。
 その、全て。

 
 信一の部下は、本当に出口までしっかり護衛をしてくれた。おかげで写真がよくよく撮れ、満足のいく仕事ができた。
 外に出て歩いていたら、さっきまで九龍城砦にいたのが嘘のような気持ちになる。香港の目まぐるしさが己は好きだった。
 風が吹いて、気持ちよさに目を細める。
 ふと、あんな室内でどこから風が吹いたのだろうと思った。うつくしい男の髪を、頬を撫でるように吹いた、あの風は。
――……
 予備のカメラを強く持ち直す。絶対に持ち帰って現像する。あの惚れ惚れするほど目を奪われた一瞬を、この世に残さないと死ねないとすら感じている。
 宿に帰る前に食事処に寄った。地元の点心屋だ。相席の卓につく。
「日本人かい」
「ああ」
 話しかけてきた相手に茶を注いでやる。
「九龍城砦に用があって」
「あんな場所に?」
 顔を顰められて、日本人には人気があるけれど香港の人にとってはそういう場所だったと思い出した。いつか未来ではどうなのだろう。ずっとずっと、九龍城砦は疎ましいものであり続けるのだろうか。ひどい場所であり続けるのだろうか。
 香港に生きて死なない自分には分からないことだし、分かるなんて口が裂けても言えない。彼らの感情を日本人である己が語るわけにもいかない。ただ、あの場所に惹かれてしまっただけで。
「今のボスに会ったか?」
「え?」
「ちょっと前まで俺も九龍城砦に住んでたんだよ」とびきりの小声で彼は囁いた。「恐ろしい場所だった。指がない綺麗な男に脅された。仕切ってるやつだ」
 頭に浮かぶのはたった一人だ。
「今は出られたけど、あの日々は思い出したくない」
 そういう人間もいる。当たり前のことだ。
 だからこそ、あの場所であんなにも溌剌に生きていた信一に驚かされたのだ。子供がいたのも、一つの国のようであることにも。
 深く深く、肺に染み渡るようにタバコを吸う信一の顔を、思い出す。何故だか彼のことを考えると泣きそうですらあった。子供のような純粋さを失って、彼は今あの場所に立っている。
 きっと、一生忘れられない美しさだった。