hinohi_no
2023-04-16 19:10:41
6478文字
Public ザファ
 

Baby,I love you.

カオルさんの話。

「俺、アメリカに行きたい」
 リョーちゃんが話がある、と言ってきたのはアンナも寝た後の夜中だった。
「アメリカ?」
 驚いて声を上げたけど、すぐにバスケのことだと気づく自分もいた。不思議な感覚だけど、きっとリョーちゃんが静かに決意しているのが伝わってきたからだろう。
……どう言う話?」
「バスケの奨学金があって、それでアメリカ留学できんだ。これ、安西先生が教えてくれた」
 出されたリーフレットを読めば、当然一次試験もあるらしいが、その日程は過ぎていた。
「一次は通ったの?」
 ちょっと嬉しくて、そんな声になった気がする。リョーちゃんは頷いて、次のトライアルはアメリカで試合するけど、向こうが金出してくれるから大丈夫、と。
「それでもし、もしも合格したら……挑戦してみたいんだ」
 バスケのこと、真っ当に詳しいわけじゃない。テレビを見て「今の技スッゲー」と騒ぐ子供達の方が、きっとわたしより詳しいと思ったことがあるくらいだ。リョーちんの試合を見に行ったことも、ソーちゃんがいなくなってから、たった二回。
 でも、アメリカでバスケしたいという気持ちが何を指すのかくらい、分からないはずもない。
「リョーちゃん……これからも、バスケで生きていくの?」
 バスケだけが生きる支えだったと書かれた手紙は。
 震えるような、リョーちゃんの優しさが綴られていた。
――……うん。俺はこれからも、バスケを続けていきたい」



 旦那が死んだ時、もう無理だと思ったし、どうすればいいかなんて分からなかった。結婚した時点では一人で生きていくなんて想像をしていなかったし、それはもっともっと後の話だと思っていたから。ソーちゃんやリョーちゃん、アンナが大きくなったら、二人でゆっくり旅行でも行こうかと話す程度には、それが無くなる未来を想定していなかった。
 今よりもずっと結婚の選択肢が当たり前だった時代に、一人になっても生きていく覚悟が誰にでもあったわけじゃなかった。
 どうすれば良いのだろう。たった一人で、どうやってこの子達を育てていけばいいのだろう。
 不安で不安でたまらないわたしは、完璧な大人というには少し足りなくて。それでも、子供ではないから、頑張るしかなかった。大人であるということは、自らの力で資本を稼ぎ、税金を収めることができることだ。そして、自らの責任のもと生きていくということだ。
 散々泣いて、それでも――旦那が死んだことには耐えられた。彼は大人だったから。
 でも、ソーちゃんが海から帰ってこなかった日。
 もう無理だと思った。
 だって、ソーちゃんはまだ、小学生だった。
 どのくらい苦しかったかな。どんなに辛かったかな。怖かったよね。可愛いソーちゃん。可愛くてたまらない、わたしのソーちゃん。これから大きくなって、やりたいことが沢山あって、きっと夢にも希望にも溢れていた、この世でたった一人の愛しいソーちゃん。
 どうしてこんなにも。
 どうしようもないほど悲しくても、海はずっと美しくて、変わることのない漣を立てていた。
 ソーちゃん、ソーちゃん。
 ごめんね、大きくなるまで、守れなくて。
 わたしが代わりになりたかったね。
 覚悟もなく奪われるなら、自分の方が、お母さんは良かったんだよ。
 
 
「すみません、お時間をいただいて」
「いえいえ。宮城君のお母様ですね、初めまして」
「宮城カオルです」
 座ることを促す手の動きに、お辞儀をしながら椅子に腰掛けた。バスケ部の顧問の安西先生と対面しながら、山王戦では遠目に過ぎなかった姿を思い出す。穏やかな人だ。
「それで、今日はどうしましたか」
「リョータのことなんですけど――……」なんて言おうか色々考えてきたけれど、実際に会ってみるとどの言葉も相応しくないような気がした。耳に髪をかけて、それから夕焼けの校舎を眺める。学校に足を踏み入れることも、何年ぶりだろうか。仕事があるから、授業参観の類も出られず、進路の面談の時くらいだ。
……いえ。学校の先生というのは、大変ですね」
 実際、そう思っていた。毎年覚えられないほどの人数が入学し、卒業していく。一クラスごとの割り当てがあり、担任はその中であまりに多くのことを求められている。シングルマザーとして、PTAの仕事は避けられたけど、あまりに煩雑で効率化していない業務は、学校の中で多いだろう。勉強だけを教える機関ならいいけれど、そうではない。
「安西先生が、バスケ部の顧問として、これまで多くの生徒を指導してきたこと、理解しています」
 その中には、きっと彼が目をかけたくなるような凄い才能の持ち主がいただろう。あるいは、バスケ部としてはそこまで力にならない子もいただろう。
 リョーちゃんがどちらなのかは、わたしには分からない。けど、山王戦で活躍していた姿を見るに、きっと前者なのだろう。ソーちゃんがそうだったように、仲間を支えられる人間なのだと思う。今は、大人の――母親の心をも慮って掬い上げた優しさに、そう信じられるから。
「その中で……きっと多くのことが、多くの出会いが、先生にもあったのだと思います」
 特別に目をかけた生徒もいれば、可愛くて仕方ない生徒もいただろう。先生は人間がやる職業だから、そうやって強弱のついた思いが付随することを否定などできない。誰かと相対する仕事から、個々の思い入れを抜き取ることなどできないのだから。
「なので、ここからは、ただの我儘な保護者のお願いなんです」手首を握る。先生の目をまっすぐに見つめながら。
「なんでしょう」
「リョータのこと、見ていてあげてもらえませんか」
 本当に、わたしのような保護者の相手もしなければならないのだから、先生は大変な仕事だと思う。
……宮城君は、すでに素晴らしい選手です」
「ありがとうございます。もちろん、エースとかじゃないとわかってます。それでいいんです。ただ、先生」
 誰かと比べれば、あの子の辛さも苦しみも、大したことじゃないのかもしれない。でも、そんなのは意味のないことだ。リョーちゃんが一切悪いこともなく、それらはリョーちゃんを襲ったのだから。
 あの子は、父親を失い、兄を失い、沢山のことを奪われてきた。
 わたしは。あの子が生きていればそれで良かった。生きているだけで、嬉しかった。
 あの子が生まれた瞬間のいっとうの喜びが分かるだろうか。産んだ後は体中痛くて、辛くて、死んじゃいそうだったけど、あの子はとても可愛かった。よく泣いて、泣き過ぎなほどだった。何がそんなに悲しいのか。何がそんなに嬉しいのか。分からないけど、リョーちゃんは本当によく泣く、可愛い子だった。お兄ちゃんのことになると目を輝かせて。子供らしく拗ねたりして。リョーちゃんが生きていればそれで良くって、バスケをやめた方が幸せならそうして欲しかった。
 でも、きっと――この子からバスケを取り上げたらダメなんだと、言い聞かせて飲み込んできた。
 生きているだけで、可愛くてたまらない、わたしの大切なリョーちゃん。リョーちゃんが死んでしまうくらいなら、わたしが死んだ方がいい。あの子がバイク事故で病院に運ばれた日、どうしようもなく誰かに祈った。神だったのかもしれない。お父さんだったのかもしれないし、ソーちゃんだったのかもしれない。
 運が良かった。あの子が生きていることをそう称されて、頭が真っ白になりながら、天を見上げた。生きていて良かった。死ななくて良かった。
 沢山怪我をして帰ってくるリョーちゃん。理由は教えてくれない。悩みを吐露することもない。何に苦しんでるのか分からない。心配ばかりかけるから、わたしはいつも怒ってしまうよね。
 それでも、それでも、それでも……
 あなたを憎んだことなんて、一度もない。いなければ良かったなんて、思うことはないよ、リョーちゃん。
「あの子が生きて、少しでも望んだ道を歩めるよう、願っています。だから、あの子の進める道が沢山あることを信じたいんです」
 子供がアクセスできる情報源なんて限られている。何がこの先の選択肢なのか、自分の力で得るには限界がある。
「だから……あの子が、望むのなら。
 バスケを続けられる道を、教えてあげて欲しいんです」
 調べるための手段がないのは、カオルも同じだ。リョーちゃんのために何ができるのか考えても、図書館に行っても、調べられることには限度がある。だから、こうして本職の人に聞くほかない。
「お忙しい中で恐縮ですが……それだけ、お願いに来ました」
「カオルさん」
「はい」
「それは元々の私の仕事です。先生は大変だ、と先ほど仰っていただきましたが……先生が大変なのは、子供を導くことが仕事だからだと思っています。私は部活動の顧問を行う以上、本来の先生より大変ではありませんが――行うべきことは同じです」
 しかし、恥ずかしながら、と安西先生は続ける。
「私はうまく導けなかった経験があり、それ以来臆病な部分がありました。けれど……宮城君を見ていると、大人のくせにと自分を情けなく思います」
「えっ……リョータが何か……?」
「いえいえ、とんでもない。とても良い子です。優しくてしっかりした、次期キャプテンですよ」
「次期キャプテン……
 初めて知ったことだ。キャプテンとして十全に活躍していたソーちゃんが脳裏で手を振るけれど、リョーちゃんもまたキャプテンとして活躍していくのだろう。
「我々は大人ですが……最善を選ぶことができない。子供だからできる、大人だからできる、ということでは無いのでしょう。私自身、大きな過ちを犯したことがあります」
……そうですね」
 リョーちゃんのためになると思って、背番号も変えてもらったほうが良いと思ったし、ソーちゃんの部屋を片付けてしまおうと思った。でも、それは大人の都合だったのだろう。わたしはリョーちゃんとよく話さずに、きっとこうするのが良いのだと決めてしまったのだ。
「そんなことができたら、神様なんでしょうね」
 常に最善手を選び続けることができる、人生ならば。きっとリョーちゃんの悩みや苦しみを聞けたのだろう。怒るように心配することもない。
 お母さんね、リョーちゃんに怒ってるんじゃないんだよ。リョーちゃんを傷つけた何かにいつも怒ってるし、自分を大事にしないリョーちゃんに怒っている。理由を言ってくれれば、リョーちゃんを殴った誰かをお母さんがぶん殴りに行く。そういうことをきちんと伝えてこなかったから――大人はダメなんだろうね。
「自分ばかりが大変ではない、ということに気づかせて貰ったという意味です。宮城君を含め――今預かっている子たちに全力で向き合うことをお約束します」
 無傷で生きてきた人間はいない。大人にもなれば、みんなどこかで痛い思いをしてきた。
 ただ、少しでも。もう手遅れかもしれなくても、意味のない行為だとしても、できることには限界があるのだとしても。
 子供たちには、少しでも痛くない世界を生きて行って欲しいのだ。少しでも望む道を歩んで欲しいのだ。暴風のようにぶつかる苦難に相対しても、立ち向かえるように助けたい。今からでも、これからでも、ほんのわずかであっても。
 あなたたちが生きるこれからを、良いものにしていきたいから、私たち大人は、間違えながらも進んでいく。選挙に行って、間違ったことに声をあげて、シングルマザーだからと宣う社会に立ち向かう。大きなことを残せなくても、後世に名前が残らなくてもいい。わたしにできるのは、先生にあなたのことを頼むほんのちっぽけな行為一つ。
 それでも、あなたの自由を、少しでも奪わないように。わたしが生きている意味が、報われるように。あなたたちが、ちょっとでも幸せを多く感じられるように――あなたが生きやすくなるように。
……ありがとうございます。リョータを、よろしくお願いします」
「はい。これまで、私は宮城君に怪我をさせてしまったり、……宮城君を十分に守れていませんでした。本当に申し訳ありません」
 先生が大変なことは分かっている。一人一人に目をかけてばかりはいられないだろう。だけど、先生は大人だ。子供同士で暴力事件が起きたなら、大人が責任ある終結を果たすべきだった。
 わたしはリョーちゃんの親で、保護者で、リョーちゃんを世界一愛してる人間だ。その矜持がある。誰よりもあの子に幸せになってほしい。報われてほしい。あの子に笑っていてほしい。苦しめているのは、わたしもなのかもしれなくて、それでも。
 あの子が笑っていられるように、ずっとずっと祈っている。
 先生の謝罪を受け入れながら頭を下げた。
 ねえ、リョーちゃん。わたしはあなたにとって、最善の母じゃないと思う。完璧な母親なら、リョーちゃんをもっと幸せにできたんだろう。毎日働いて、ご飯を作って、バスケを取り上げないでいるくらいしかできない親だよ。あの日あなたに殆ど暴力で向かったことを、一生後悔する。わたしは最善の親じゃない。
 それでも、あなたのそばで一緒に苦しんできた何かだから。
 あなたに少しでも何か渡せるように。
 今更だけど、本当にごめんね。
 でも、あなたがわたしの子供で、わたしはとても嬉しいよ。



 ――安西先生は約束を果たしてくれた。インターハイ後の、わたしの無遠慮なお願いを忘れないでいてくれた。先生が見つけてこなければ、リョーちゃんも奨学金なんて知らないままだったかも知れない。
「そっか。じゃあ、色々準備しなくちゃね」
……い、いいの?」
 ぱちぱちと瞬く顔は、少しお父さんに似ているだろうか。バスケで生きていくのは、きっと沢山苦労があるのだろう。でも、どの道を選んでも同じだ。これなら大丈夫と思っていても、何が起きるか分からない。だったら、リョーちゃんがやりたいことをやって、全力で生きていける道がいい。
「金とか……
「子供がそんなこと心配せんでいいよ。ちゃんと、リョーちゃんとアンナ用の通帳作ってるんだから」
 幸いにも、色々な手あては出ていて、家賃だって嘘みたいな安さで暮らしている。
「パスポート取るんでしょ? 折角なら十年のやつ取りなさい」
「えっ、それこそ一番たけーやつじゃん」
「バスケ、本気で続けるんでしょ」
――
「応援してるからね」
 頑張れと、腹の底から応援できなかった八年は過ぎた。もういいのだ。辛くて、息ができなくて、沢山泣いた日々は消えはしない。傷は残る。それでも――大きくなったリョーちゃんのことを、世界で一番愛しく思っている。
……あ」
「あ?」
 照れ屋な息子のことを、揶揄うように促した。本当はわたし自身もそうなので、似たもの同士なのだけど。
「あ、ありがと」
「どういたしまして」
 言葉にすると照れくさいから、手紙で残したリョーちゃんと、その中身について話したことはない。互いにそれでいいと思っている。
……じゃ、今日は……おやすみ」
「おやすみ」
 立ち上がったリョーちゃんの背中が少し曲がっていたので、力強く叩いた。
「おわっ⁈」
「アメリカ、まずはトライアルね」
 そこを突破しなければ、アメリカ留学も何もない。でも、合格さえすれば、リョーちゃんはアメリカでもっと沢山の人とバスケができる。バスケが上手くなれる。英語を覚えなきゃとか不安はあるけど、そんなのリョーちゃんだってわかっているはずだ。だからきっと、わたしは信じるだけでいい。この子が行く道を信じてあげればそれでいい。わたしなんかよりも、ずっとずっと優しくて、弱くて強い、この子のことを。
 きっと、笑顔で送り出すだけでいいのだから。
――気合い入れて、行ってらっしゃい!」
 背中いてーよ、と文句を言うリョーちゃんは、少しだけ照れていた。