hinohi_no
2023-03-22 15:38:52
6714文字
Public ザファ
 

わたしたちは俯かなくていい

ザファ。アンナちゃんがいつかの何かを知った日の話。6695字。

 なんで謝るの? とお母さんに尋ねた。引かれた腕が、痛かったから。
 すみません、なんて。まるで、わたしがいけないことを言ったみたいだった。
「お母さん、だってあの人たち嘘言って……
「いいから!」
 きつく止められて、椅子に戻らずにお母さんは壁際に立つ。ここじゃリョーちゃんよく見えないよ、と言っても全然動かない。リョーちゃん、バスケですごく活躍してるのに、なんでこんな見えにくい場所で見なきゃいけないの?
 お母さんが怒るから、わたしはきっと言っちゃいけないことを言ったんだと思う。
 でも、今までは怒られたことがなかったのに。誰かに言っちゃいけないのだろうか。
 ねえソーちゃん。
 なんで、お母さんは謝らなくていいことを謝るのかな。
 なんでお母さんはリョーちゃんのこと、応援してあげないのかな。
 
 
 ソーちゃんは海に行って、帰ってこなかった。事故に遭ったって、血相を変えて誰かが飛び込んできて、お母さんとリョーちゃんと、何が何だかわからないまま車に乗り込む。
「ソーちゃん、どこ行っちゃったのかな」
 よく分からないまま大人たちは大騒ぎしてて、おじさんたちや警察の人が船を出して海が夜でも光っている。わたしたちは、子供はもう帰ったほうがいい、カオルさんも眠らないと、なんて声を聞きながら、お祭り騒ぎのような海から帰る。
 おばあちゃんが布団を用意してくれて、不安そうなリョーちゃんと一緒に布団に入り込む。お母さんは? と聞けば、おばあちゃんの柔らかくてシワシワの手が頭を撫でてくる。優しさを受けて、一気に全部が不安になった。
「ソーちゃん……
 じわ、と涙が出てきそうになる。どこに行ったの。みんな探してるよ。リョーちゃんも泣きそうだし、お母さんも。ねえ、ソーちゃん。グスグスと涙が出てきて、それを止めたのもまたおばあちゃんだった。
「ソータは泳ぎがうまかったよねえ」
……え?」
「どこかの島まで泳いで行ったかもしれないよ」
 がば、とリョーちゃんもわたしも起き上がった。ソーちゃん、海の中を一生懸命泳いで、どこかに流れ着いて……。リョーちゃんと目が合った。わたしは、目を輝かせる。
「きっとそうだよ、ソーちゃんだもん!」
 なんでもできるソーちゃんなら、あの長い手足で、大人が想像もつかないようなことをしでかすに決まってる。今は隠れてびっくりさせようとしているんだ。
 そう思ったらほっとして、わたしはそうだよねえ、と泣きながら布団に潜った。リョーちゃんは暫く無言で、おばあちゃんにもう寝なさいと嗜められていた。そうだよリョーちゃん。
 何も心配なんてしなくていいんだよ。
 その日から、ソーちゃんは遠い島でひとりで暮らす、すごいお兄ちゃんになった。
 お母さんと離れて暮らすなんて、きっとすっごい寂しい。仲がいいリョーちゃんと離れるなんて、ソーちゃんもすっごい辛いはず。それでもなかなかあの島から帰ってこれないんだ。ソーちゃんを見つけてあげられてないんだ。
 ソーちゃん。遠い島でどうしているのかな。一緒に遊ぶ相手はいるのかな。バスケはやってるのかな。好きな釣りはできてるのかな。まだ戻ってこれないのかな。もしかして、事故でキオクソーシツってやつなのかも。早く帰ってきて欲しい、お母さんもおばあちゃんもリョーちゃんも喜ぶよ。
 寂しいよ、ソーちゃん。
 ソーちゃんもきっと寂しいよね。だから、ソーちゃんが帰る部屋もずっとある。いつでも帰ってこられるように、ソーちゃんのこと待ってるんだよ。
 ざぶざぶと海を泳ぐソーちゃんは、こっちに帰ってこようと、頑張ってるのかな。
 ソーちゃんが帰ってきたら、何をしよう。またスイカを食べようね。バスケもしよう。わたしとテレビのチャンネルを取り合って、リョーちゃんと二人で遊びに行くのをいっぱい邪魔しちゃうね。置いてけぼりは寂しいもん。
 会いたいね、ソーちゃん。
 

 もしかしたら、わたしが悪かったのかな。
 リョーちゃんのチームは負けてしまったけど、リョーちゃんは頑張ってた。だから、きっとわたしの応援が足りなかったんだと思う。でも、お母さんも応援が足りない。
「もっとこー……腹から声出さないと……
 リョーちゃんの応援行きたい、と頼み込んだはわたしだ。だって応援席は大人ばっかりで、子供一人で行くのは居心地が悪い。お母さんはいつも仕事で行ってくれないけど、今日は大丈夫な日。お母さんは結構、わたしのお願いに弱い。
 夕焼けの中、外を歩いていたら、試合で応援席にいたおばさんと、意地悪なことを言ったおじさんとばったり会った。正確には、おじさんのうちの一人。
「あ、嘘つきのおじさん!」
「何言うんだ」
 目を丸くしたおじさんに、わたしはカンカンに怒っていた。
「だって、ソーちゃんが死んだなんて嘘言って。おかげでリョーちゃんの応援もし損ねたのよ」
 おじさんの声はよく響いて、もしかしてリョーちゃんまで届いていたかもしれない。もしもそんな嘘をリョーちゃんが。あんなにソーちゃんが大好きなリョーちゃんが聞こえていたら。
 ゴールは苦手だけど、そうじゃなくてあんな言葉が聞こえていたからだとしたら、今日の負けはやっぱりおじさんのせいだ。
「人を嘘つき呼ばわりはよくないぞ。子供のくせに」
「子供だから何よ」
 ムッとした様子のおじさんに、おばさんが口を挟む。
「あんた声がでかいのよ。よくあんな無神経なこと言えたわね。恥ずかしいわよ大人のくせに」
「なっ……
「そうよ、ソーちゃんは海で事故に遭ったけど、どこかの島に流れついてるの。遠い島だから帰ってこれないだけ!」
……ああ」
 おじさんが気まずそうに目を背けた。
「それは悪かった」
「あんた、それだけじゃないでしょ」
 おばさんがおじさんを叩いて、それからわたしを向く。目線を合わせて、しっかりと――信じられないほど申し訳なさそうに。
「カオルちゃんはひとりで本当に頑張ってる。リョーちゃんも。この人、カオルちゃんやリョーちゃんに勝手にレッテル貼って、謝らせて俯かせたでしょう」
「なっ……!」
 リョーちゃんが、ダメとか。
 ソーちゃんの代わりになんて、なれないとか。
 わたしも聞こえていた。何を言ってるか分からないから、分からないままでいいと思った。お母さんは辛そうで、どうしてそんなに謝るのか、ちっとも分からないままだ。
「アンナちゃん」
 頭を撫でられる。おじさんは怒っている。わたしは、おばさんがこの後おじさんと喧嘩をしないか、それだけが不安だった。だから。
「本当にごめんなさいね……うちのダンナのこと謝るわ。
 でも――アンナちゃんは、謝らなくていい時は、ずっと胸を張って生きていてね」
 この言葉の意味がちゃんとわかっていたのだろうか。
 
「おばちゃんは悪くないのに……
 
 ぼんやりそう呟いて、おじさんとおばさんが帰っていくのを見ていた。おじさんは顔を真っ赤にしていたけれど、おばさんは時々こっちを見て平気そうにしていたから、大きな喧嘩にはならないかもしれない。
 撫でられた頭を触って、海を見る。まっすぐ帰りたくなくて、おばあちゃんの家に寄ろうかなと歩き出す。
「お兄ちゃんっ、待ってよ」
 ちっちゃな女の子が、走る男の子を追いかけてわたしの隣を走り去る。待ってよ。待たない兄を追いかけて、その子は転んだ。
「まっ……行かないでよ、う、うえ……お兄ちゃ〜〜んっ……!」
「わ、泣くなよ……! 膝、見せてみろ!」
 泣きじゃくるその子を、先を歩いていたお兄ちゃんが戻ってきて嗜めた。海の音が、泣き声にかき消される。
「うえ、えっ……ごめんなさい……
 何にも悪くないのに、その子は泣いていた。
 戻ってくれたお兄ちゃんを見て、泣いているお母さんと、リョーちゃんを思う。
 ――海の事故で亡くなった、宮城ソータの……
 ――兄貴の代わりには、なれないさ。
 ソーちゃんは、泣いているリョーちゃんを放っておけない。わたしが転んだら絶対に戻ってきてくれた。お母さんが困っていたら、率先して助けてくれた。
 俺が、この家のキャプテンになるよ!
 そう言ったソーちゃんのことを思い出して。
 ――ああ。
 ソーちゃんは、もういないんだ。
 そのことに気づいて、わたしはゆっくり歩いていた力を失って、俯いて、膝を抱えて、泣いた。
「ソーちゃん……ソーちゃんっ……
 遠い島に、ソーちゃんはいない。
「ごめんなさい…………
 謝るから、帰ってきて。アンナが悪いことをしたのなら、たくさんたくさん、謝るから。
 帰ってきてよ。戻ってきて。今すぐ笑顔で泳いできて。わたしが悪いから。何にも知らずに信じてきた。お母さんとリョーちゃんは、どんな気持ちだったんだろう。ソーちゃん。ねえ、ソーちゃん。
「ごめんなさいぃっ……!」
 ボロボロと涙が出てきて、引き攣ったみたいに止まらなくなる。しゃっくりあげてべちょべちょになって、鼻水もいっぱい出て、どんどん暗くなる中で、しゃがみ込んで動けないまま。
 真っ暗になってしまって、泣き疲れたわたしは、そのまま地面に寝転んだ。何もかも嫌だった。目も痛い。このまま寝てしまおうかな、だって帰りたくない。こんな時間まで何してたんだって怒られる。怒られたくない。泣いてたってバレるし、理由も言いたくない。
「家出しちゃおうかな……
 遠い島にでも、泳いで行ってしまおうか。
――アンナ⁈」
 そんな夜に、誰かに呼ばれてびくりと震えた。お母さんが一番怖いから、誰かなと顔を上げて。
「あ……リョーちゃん」
 探しにきてくれたのは、リョーちゃんだった。
「大丈夫か? 怪我は?」
……ううん……
 フルフルと首を振る。リョーちゃんは怒っていなかった。心配そうにわたしの体をペタペタ触って、良かったと眉を下げる。
……お母さんは? 怒ってる?」
「今ならまだ大丈夫だ。ばあちゃんちに行ったことにしたから……
 小声でリョーちゃんが言うからびっくりした。
「嘘ついたの?」
「嘘じゃねーって。ほら、行くぞ」
 後から思えば、子供が合わせた口裏なんて簡単に見破られていたのだろうけど。
 リョーちゃんの手を握って歩きだす。
「わ……リョーちゃん、流れ星だよ」
「え? おー、キレイだな」
 なんでかその夜の道を、空を、わたしはすごくよく覚えている。
 泣き腫らした顔でも、帰ったらお母さんは何も言わなかった。ただただ、早く帰ってきなさいねと言われただけだ。
 なんでもないみたいにお風呂に入って、布団に潜る。疲れたから、すぐに眠れた。
(アンナ、ただいま!)
 その日、ソーちゃんが帰ってくる夢を見た。
 
 
「制服よし、髪型よし……
 毎朝のルーティンチェックを終えて、お母さんが焼いてくれたパンを食べる。バタバタと支度をするお母さんを横目に、端まで塗られていないバターを気にしながら。
「早くでなさい、遅刻するでしょ」
「はーい」
 リョーちゃんはもう出発してていなかった。インターハイで、みんなでバスに乗って広島まで行くらしい。インターハイだって、すごいよね。わたしは運動部じゃないけど、それがすごいことはわかる。自慢の兄だ。
「あっ、ルーズリーフ」
 授業用のルーズリーフを買うのを忘れていた。昨日切らしたのに。今から登校までで空いている文房具屋さんなんてない。
 そうだ、リョーちゃんから借りよう。
 不在中に勝手に取るのは良くないけど、仕方ない。後から謝ろう。
 部屋に入って、ルーズリーフを探す。机のところにあった。昨日、早く休むって言ってたのに勉強してたのかな。
 リョーちゃん勉強嫌いなのに。少し意外で、使ったのであろう罫線の入った紙を眺める。ゴミ箱に入った、書き損じたであろうくしゃくしゃの一枚。
 なんで見ようと思ったかはよく分からない。
 ただ、なんとなく、見た方がいいと思った。人のゴミ箱をあさるなんて、と頭のどこかが止めるのに、指が拾い上げる。
 
……リョーちゃん」
 
 謝らなくていいんだよと、わたしはぐしゃぐしゃの紙を引き延ばして、お母さんに会わないように急いで家を出た。
 
 リョーちゃん。
 東京に来てから、リョーちゃんは時々怪我をした。昔より少しお母さんと話さなくなったし、ちょっと孤立して怖い人だって言う人もいる。
 でも、わたしにとっては変わらないリョーちゃんだ。死ななくてよかった。生きててよかった。リョーちゃんが大怪我した時に、本当に怖かった。リョーちゃん。リョーちゃん。
 お父さんもいなくなって、ソーちゃんも死んじゃって、リョーちゃんだけが、わたしを迎えに来てくれた。
 謝らなくていいんだよ。胸を張っていいんだよ。悪くもないのに、すみませんなんて言わなくていいんだよ!
 だってわたしはリョーちゃんが大好きだ。部屋に入ってもブツクサ言いながら絶対怒らないし、本当に悲しい時はすぐに気づいてくれる。
 リョーちゃんが怪我をするこんな世界で、リョーちゃんが謝る必要なんてこれっぽちもないんだから。
 リョーちゃんは誰かを傷つけてない、何にも悪くない。それなのに、リョーちゃんは傷つけられる。リョーちゃんのことを何にも知らない人たちに!
 あの日のおじさんの顔が浮かんで、それからおばさんのことを思い出す。おじさんは何が悪いのかもよくわかっていなかった。今も全然、わたしは許してない。
 それでも。
 おばさんは、本当に心配してくれていた。怒ってくれていた。
「リョーちゃん……
 涙が溢れてくる。泣きながら登校しているから人目を引いているけれど、俯く気も、謝る気もなかった。
「リョーちゃん」
 あの日、壁際で叫んでいた応援は、リョーちゃんに届いていただろうか。
 リョーちゃんを傷つけてきた人のことを、わたしはきっとずっと許さない。それでも、優しくしてくれた人のことも忘れない。リョーちゃんがこれから、優しい人とだけ生きられますように。リョーちゃんのことを、大事にしてくれる人といられるように。リョーちゃんが幸せであるように。リョーちゃんが生きててよかったんだと、胸を張れる世界であるように。
 インターハイの舞台。リョーちゃんの晴れ舞台。応援に行けないのが悔しいけれど、来るなって言われたから仕方ない。でも、あの日、もっとリョーちゃんを応援していたかったよ。ソーちゃんの代わりじゃないリョーちゃんが大好きなんだよ。
 涙を拭って歩きながら、リョーちゃんと見た星を想う。リョーちゃんが負けたあの試合を思う。
「頑張れ、リョーちゃん」
 どんな強敵が待っていても、恐ろしい相手でも。
 リョーちゃんならできる。リョーちゃんならやれる。ソーちゃんの代わりじゃない。リョーちゃんだから、そこにいる。
 わたしはここから、リョーちゃんを応援している。届かないかもしれないけど、無意味かもしれないけど――大事な人を応援する。
 
 だって。
 人生でどれだけ理不尽なことがあっても、軽んじられて踏み躙られることがあっても、わたしたちは笑わなくていい。自分を貶まなくていい。いつだってそうでも、そうやって生きてきたとしても、自分を大切にしていいはずなのだ。それができないのなら、あなたが大切だと叫び続けるしかないのだ。
 あの日、あの夜。ソーちゃんが死んだことを知って泣いたわたしを迎えにきてくれた。
 宮城リョータは、わたしの自慢の、最高の兄だから。
 そして、宮城リョータの自慢の妹であれるように、わたしは絶対に負けないのだ。歯を食いしばって、辛いことも悔しいことも受け止めて、踏み躙られたら怒ってやる。怒れなかった、謝ってきた人の分まで、目一杯。
 なんてことはない日常の中で、生きていくしかない。
 不意に、空を見上げた。そろそろ鐘がなる。遅刻してしまいそうだけど、急ぐ気にはなれなかった。
 ねえ、ソーちゃん。
 遠い島で暮らしていた、いつかのあなたも、きっとそう思うよね。
……リョーちゃんの試合、何時からだっけ」
 全然遠く離れていて、わたしが何をしたって変わるものではないけれど、その時間だけは、リョーちゃんの晴れ舞台を想っていたかった。
 その四十分を、全霊で駆ける兄のために。
(頑張れ、頑張れ、頑張れ、リョーちゃん……!)
 宮城アンナは、涙を拭いて前を向く。